美術ノート 10



■  バーネット・ニューマン展  川村記念美術館  その4






ここに、一枚の紙があるとしよう。君はそれに何を描いてもよい。ねこのイラストでもいいし、家計簿の計算式でもいいし、ちょっとしたアイデアのメモでもよいし、ラヴ・レターの下書きでもよい。そして一枚の紙がそれ自体「実用性」のあるものだとすれば、その紙は十全に活かされることになるだろう。もちろん、君は何も描かなくてもよい。「この世で一番美しいものは、何も描かれていない白紙である」と言ったヴァレリーや、「私はタブラ・ラサ(白紙)に恐怖した」と言ったマラルメを思いだし、それが角度によって光を微妙に反射させることや、光を吸収しているように見えたりすることを楽しんでもいいだろう。(うまくいえないが、僕は、そうやって余白にうっとりすることはとても重要なことだと思う。)





例えばバーネット・ニューマンはそこに一本の線を引いた。紙のちょうど真ん中に上から下に伸びる線を引いた。紙は二分されることになった。さて、(もっとも単純化していうと)ニューマンの謎は「これが絵になる」ということを独自のものにしたことであり、終生その縦線を引き続けたことにある。(縦線のすべてが真ん中に引かれたわけではない)。彼が41歳の時に発見したその縦帯線「ZIP」は、その苛烈な反復によってニューマンの特異性を強調することになるだろう。





ところで、松浦寿夫岡崎乾二郎の対談集『絵画の準備を!』(2005)のなかで、岡崎乾二郎は次のようにニューマンの飽くことのない「反復」について発言している。



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(中略)・・・こうした抽象表現主義の作品と、いわゆるPC的サブジェクトの作品、あるいはプリミティヴ芸術というのは、表向き対立するように見えるけど、語られてしまう理屈では同じだと思う。つまり抽象表現主義は絵画はそれ自体の自発性というモデルで作者を消してしまう。ゆえにその作品群にヴァリエーションが少ないと批判しても始まらない。ふつうの人間だったら、一生、縦の線一本しか描いてなかったら、知能に問題がある。実際いい意味で問題があったかもしれないけれど。この線がアノニマスな[匿名の]民族芸術として作られたものだったり、絵画の自発性からもたらされたものだったりしたら仕方ない。(p.72)

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(ドリー・アシュトン女史の『ニューヨーク・スクール』や、ニューマン展のカタログ・レゾネに掲載されているイヴ=アラン・ボアのテクスト『ここにわたしががいる』に書かれていることだが、当時のニューヨーク・スクールの画家はキルケゴールの著作をよく読んでいたらしい。それも『おそれとおののき』がよく読まれていたという記述がある。だけど、僕には『反復』も同時に読んでいたのではないかと思われる。)





岡崎乾二郎がいう「いい意味での問題として、生涯、ニューマンが「ZIP」を引き続けたこと」。これは、もちろん「同じ行為をそっくりそのまま繰り返した」ということではない。むしろ「同じような行為が同じようなことやものにならないために」ZIPを引き続けたのだ。喩えていうならば、毎日毎日、同じ包丁で同じようなタマネギを、同じように切っても、決して毎日同じような感じの料理にさせないためにいろいろと工夫をこらしながら献立を考える主婦のように、ニューマンはZIPをひきつづけたのだ。





このような「反復」は、現実的な条件にこそ規定されてもいる。だが一方で「反復」に美学的(想像的)な側面を認めたり、一定の充実さえも感じることのできる何かとして認識できるものとして措定されているにちがいない。・・・「同じようだけど、よく見るとちがう」、あるいは「同一的でありながらも非−同一的だ」ということは、そこにあらわれる「差異」を認めるいうことである。(ジル・ドゥルーズの著作のタイトルを借りていえば)「差異と反復」こそが、ニューマンの一枚一枚のカンバスの絵をつらぬいているのだ。






ここで、ニューマンとポロックの差異に触れておこう。ポロックもまた痴呆的な反復を良しとし、その実現こそが、ポロックの絵画のポロック性を強調させている。例えば、ある時には、南米インディアンの砂絵に着想を得たり、また、度の超えたアルコール中毒時には、かかりつけの精神科医によって吹聴されたユング心理学に薫陶を受け、絵画のモチーフを得たりしていた。しかし、そういった時期を通過して、ドリッピングという手法を使いながら、「よく似た感じの絵」を描きまくることになる。世代的にもポロックとかぶっているニューマンであるが、ニューヨークのアートシーンおいて同一的なフィールドに住んでいた彼は、しかし、ポロックとはずいぶん違った方向性を突き進むことになる。われわれは、一枚のキャンバスを「一つの閉じられた全体」として、どうしても知覚しがちだが、ニューマンがうたがったのは、まず、この「全体性」であるといってもいいだろう。「ZIP」と呼ばれる垂直の帯は「一枚の絵画の全体化」に対する「反論」であるが、しかし、同時に、それを一枚の絵画として保証するという逆説的な手法なのである。さらにニューマンは、そのZIPを用いた「絵画の形式的な純化」を試みる。ポロックが純粋物理の法則(ニュートンの第一法則)に基づいて、底に穴を空けた絵の具缶を天井から吊り下げ、それを右往左往にブラブラさせながら、ドリッピングを試みたり、まるで闘牛士のように、ばかでかいキャンバスをガシガシ踏みつけながら、絵そのものと「自然主義的に」格闘していたのとはちがって、ニューマンはずいぶん、理知的に、静謐に、観念的に、絵画と向き合っていたのだった。(2010−10−21 つづく)