絵画の喜び、そして苦行


わたしは画家をめざしたこともなければ、実際画家であったことは一秒たりともないが、絵を描くことは、それ自体はかなり贅沢なことであり、とても有意義だと考えている。


Scrribling2〜4は切り紙を貼り付けるというもので、色彩の部分と水墨の部分のパートに分けられる。


もっとも、このシリーズでは水墨の切断面をいかにして見せるかということに主眼がおかれていた。


水墨は中国の良心であり、「暴徒たちは、水墨の精神を忘れているのではないか、」と頭を過ぎらなくもなかった。


Scribbling 5で取り上げた2009年の時点では、水墨と色彩の境界処理が非常にあいまいであり、うまくいったとは到底思えない。稚拙である。


網膜に与える色彩の直接性、一瞬にして「はああ!」と成るような直接性が好きである。


二つの色の併置(並置)、二つの形の併置(並置)、それはもうすでにモンタージュである。


色素が視床下部をどんどんと侵食していく、というか、ずっと見続けていると、眼球が色そのものになる瞬間が必ずおとずれる。


絵を描くことは、リアルな思いを表出するというよりも、それを裏切ってゆく過程の方がより強力に出現してくる。方法は感覚に裏切られるが、また、方法で持ち直してゆくという過程に絵画制作の面白みがある。


このプロセスは映画制作の間接性に比べて、より直接的である。より直接的なことを間接的なことに応用すべきである。


ベストな構図を作るためにはかなりの集中力を要するが、ベストな構図それ自体が、なぜベストなのかは、例の黄金分割にもかかわりがあるだろうが、それだけではないと思われる。(2012・9・21)