映像ノート 2



■ 映像ノート2




映像ノートのセリエルでは、少なくとも「映画ではない映像」に関して記述しようと思う。テレビ、映画以外の映像ソース、ネット上のブロード・キャスティング、などなどである。または、<映像ノート1>で記したように、studies 研究といった趣をも含めて、取り組むことも許容しておきたい。




さて、略称INA、日本語でいうと、おそらくは視聴覚研究所と訳されることにもなるし、『ゴダール/映画史』として上梓されているカナダでの講演録をものしたジャン=リュック・ゴダールも関与したフランスの組織だろうが、そのINAが、プロデュースしたJAZZに関する映像を観た。1959年、パリのクラブ・サンジェルマン、そして同じく1959年、パリのブルーノート、いわずとしれたピアニスト、バド・パウエルの生前の超貴重なドキュメントである。(1959年とはほかでもないゴダールのデビュー作、勝手にしやがれ、が、撮影、公開された年でもあった)




ニューヨークでの活動に嫌気がさして、バターカップ夫人、息子のジョンを連れ立ってのパリ移住。マイルスも述懐していたが、「パリでの扱いはアメリカでの扱いとは比較にならないほどよい」。7曲おさめられているなかで、最後の2曲が、クラブ・サンジェルマンのもので、ブルーノートのものとは、ピアノのフィンガリングの撮影手法がやや異なってくる。それは手元をきっちりうすかどうか、というスタイル上の問題である。・・・こんにち、ギターやピアノの教材は、教室に通わなくとも、YOU TUBEで習得できるのではないか、というほどに、その「映像=教材」の多様化がすすんでいるわけだが、当時より、撮影された映像は、きっとフィンガリングの教材的価値もあったのだろう。・・・みじかいライナーノーツには、そういうことも書いてあった。




バド・パウエル。超絶技巧、といえば安易かもしれないが、運指速度だけを問題とすれば、(近年ちゃらちゃらともてはやされた)グールドよりも、パウエルのほうが、1.3倍ほど速く、正確に弾けるのではないかと思う。バドにとっての超えるべき先達はアート・テイタムだったが、アル・ヘイグセロニアス・モンクにも間接的影響を受けたということだから、その柔軟さ、振幅の激しさに驚くほかない。ラストを飾るのは、ビ・バップのクラッシックとでもいうべき、『anthoropology』。作曲はパーカー&ガレスピーであるが、わたしはいったいぜんたいこの曲を何回聴いたことだろうか。夏の京都の鴨川の焼刃のような水面を思い出し、京阪電車の窓を思い出し、北山のアンニュイを思い出し、琵琶湖湖畔のデカダンスを思い出し、いつまでたっても垢抜けない若者たちを思い出す。眩暈がする。・・・バドが絶えず、チューイング・ガムをくちゃくちゃ噛みながら演奏しているとしても、その演奏中のフィンガリングをまったく知覚せずとも、バドはやはり偉大なピアニストだったのだ。そう信じて疑わない。




そして、ライナーノーツにはこんなことが書いてあった。




「バドの友人でもあった秋吉敏子は、晩年の彼に1ドル貸して欲しいといわれ、涙が出るほど悲しかったという。自分が憧れてきたピアニストだっただけに、せめて10ドル貸して欲しいと言ってほしかった、と回想する。」




バドが精神病の果てに、電気ショック療法を施され、さらにおかしくなる以前のことなのか、以後のことなのか、そこまでは記されていないが、そして、秋吉敏子がそんなバドに対してどういうリアクションをとったのか、そこまでは記されていないが、いずれにしても悲しいエピソードではあるだろう。芸術は、いかにも過酷である。そんなバドがニューヨークの病院で息をひきとるのは、1966年、7月31日のこと。いまから46年前の話である。