コンサートノート 6

■コンサートノート6  JAZZ ART SENGAWA 2012 その2




さて、あれから10日経ったが、最後のステージを務めたクァルテットについて、書き記しておこうと思う。坂田明ジム・オルーク、山本達久、高岡大祐である。サックス、ギター、チューバ、ドラムスという編成で、いわゆるフリージャズ風の楽曲が1時間ばかり続いた。まず、衝撃的なのは、坂田明の音源をCDで聴いてもなにもわからない、ということだ。いや、それなりの良質のアンプ、スピーカーを取り揃えて、音量、音質とともに、ほぼライヴ・ステージングの時にように、トゥーマッチな設定をおこなったとしても、語の真の意味での「ヴァイブス」が伝わってくるかが、問題なのである。そして、試みはむなしくも失敗に終わるだろう。




わたしは、ときおり冷静になって、自分の胸部に手のひらをあててみた。体が震えているかどうかを確かめてみるためである。直接的なヴァイブス=波動を身体が受けているかどうか、である。震源地、そして震源の仕掛け人とでもいうべき、ステージに立つ4人は、ことさら、その演奏に<何事をも挟まず>一直線に最後まで突き進んだ。ときにそのサウンドにユーモラスな感触を覚えたが、ソロのパートにおいて、おのおのが極めて自由にパフォーマンスを繰り広げていた、ということなのかもしれない。




ドラムスのパフォーマンスが面白かった。ふと、見ると、マイクを左手に持って、右手でスティッキングした音、その余波=残響を(金魚すくいをするように)拾い上げ、スピーカーを通して鳴らすというもので、そして、少し時間がたつと、まるで奇術師のように、判然としない物体を天に放り投げている。たしかにその残響は聞こえるには及ばないものであったが、ここに少しばかりの<自由>を見出しても、だれも、なにもとがめないであろう。チューバ、この低音質の楽器は、その外貌の煌びやかさに反比例して、こもった低音を出すしかないのだが、ベースに管楽器をもってくるところが、坂田明微分的サックスと拮抗しうる低音だということなのだろうか、なるほど、と思った。いずれにしてもコントラバス、エレクトリックベースを採用しなかったということだ。




サキソフォニック・マシン、坂田明の身体性は恐るべきものだ。1から100までモア・ザン・テクニークである。もはや、彼のテクニークを追えるほどの聴覚的悠長さは、こちらには微塵も残されていない、ということだ。その無駄な贅肉を排した小さな胸板に高性能のICチップが埋められているのではないか、と思うほどである。ロボット的ソーシァルな世紀末社会?その構成員を皆殺しにするたった独りのサイボーグ貴族のような面持ちで、悠然と、しかし、苛烈に暴走しつづける。それがサキソフォニック・マシンとしての坂田明の勇姿であった。ジム・オルーク、唯一、電気増幅を行うエレクトリック・ギターであるが、彼は「増幅されざること」に対して、きわめて正確かつ慎重なサウンド・コントロールを行った。どこまでもエゴ・クラッシュ・ファシズム的なパフォーマンスに陥りがちな<フリー>であるが、エレキが目だっては元も子もないだろう。余計な放射能が撒き散らされるだけである。



降霊術師、降臨する神、ようするに天上のイデア、超越者、超越物を地上にひきずりおろす、というきわめてシャーマニックな業を担う<神に仕えざる者たち=ミュージシャン>。シャーマンは、ミュージシャンは、しかしながら、サイボーグでもあった。・・・・しかし、そもそも、何ゆえに彼らは演奏しつづけるのか?もちろん、この世に<奇跡>を起こすためである。(2012・7・31)