コンサートノート 5



■ コンサートノート5   「JAZZ ART SENGAWA 2012」





JAZZに関してはおろか、音楽に関しても、歴史的に膨大なアルシーヴ、資料体があるので、逐一、疑問点、あやふな点などをチェックしながら書き進めるべきなのだろうが、その余裕がいまのわたしにはない。先日、フェイスブック上で、おおたか静流、ペットボトル人間、自由即興については、ある程度、書いてしまったので、今日はちがうポイントから書いてみたい。JAZZ、とひとことでいうけれど、その様態はさまざまである。特殊、一般、というふうに分別するのは、怠惰にはちがいないが、おおかた「ジャズっぽさ」という印象を、もっている方は多く、「ぽさ」に適合したときに、「ジャズを聞いたのだ」という落着のさせかたをしてしまう人も多くいるだろう。だが「ぽさ」が必ずしも一般だというわけではない。その理由はおいおい述べようと思う。




倉知久美夫、菊地成孔外山明のトリオ演奏は15時30分から開始された。じつのところ、このトリオ演奏はジャズっぽくはなかった。およそ5曲ほどの演奏、そのラストで小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」がカヴァーされるところをみても、「いかに大胆にハズすか」というスタンスを固持していたように思う。




倉知久美夫にかんする前知識は皆無であり、外山明も同様、わたしは菊地成孔の生演奏を聞きたいがために、会場まで足を運んだものなので、それはそれでたいへん満足だった。それにつけても、あの倉知久美夫の歌いっぷり・・・パフォーマンスなきパフォーマンスといえばいいのか・・・その常軌を逸した表象はいまでも眼に焼きついている。ジャズ=かっこいい、すなわちクールであるというクリッシェを換骨奪胎させるに足る十分な大胆さがあったと思う。





観客との対角線上の関係をこばみ、眼が虚空の一点をじっと、ずっとみつめ、斜め上にすうっと放り投げられている。そうやって虚空凝視定点を設定しなければ、なりたたないような歌唱理念なのだろう。




歌詞は日本語であることは了解できるが、わたしが現在記憶しているのは「エリンギ」の一語である。すぐれた歌詞は「紋きり型」、たとえば、「愛する、恋する、あなたとの距離を、・・・」などのステレオタイプをいかに排するかに意識的にとりくまねばならないことは明瞭なのだが、倉知久美夫、彼は彼の内的宇宙をさまざまなアレゴリーを使用しながら、時間の流れにそってシンボライズすること・・・多くのロックミュージシャンが陥ってしまいがちな・・・を、同時に拒否している。<そこに>とどめておくべきアレゴリーの密度、そして強度、それだけが問題なのである。演奏体勢がまた面白い、ホッテントットというのか、常時、お尻をうしろに突き出して、足を後方に、交互に滑らせて、まったく意味不明のアクションである。さまになっているか、ぶざまか、となると後者であることは否定できないが、それでいて、眼が彼方の一点をじっと見つめ、あまり意味のくみとりがたい内的宇宙が歌われることに、ユーモラスな感触を持った観客も多いのではないかと思う。むろん、そのヴォーカリスト兼ギタリストの彼の脇で、サックス(兼ピアノ)、ドラムスが、いたってまじめに演奏されていることが、逆に彼のおかしさをひきたてることにはなるのだが。





そして生演奏においては、こういったステージ・パフォーマンスも同時に付加的なサインとして受け取りながら聴取できるという喜びがあり、共有材料としては、ネット上の演奏よりもはるかな「出来事としての情報」に彩られているのはいうまでもない。なんともクールな美学の賜物だろうが、菊地成孔は、この真夏日、(まあ涼しかったのだが)に、なんとボアフードつきのダウンジャケット、それも、しっかりした濃紫色のダウンを着込みながらの演奏だった。対する倉知久美夫は、シンプルな、しっかりしたオレンジ色のブラウス。そして、「粋」という形容があてはまるかはどうかはともかく、そのステージライティングも始終、動きを拒否した紫とオレンジで統一されていたことを付記しておこう。おそらくフォーマル、ダンディズム、クール、という三つ揃えの美学追求ということになると思うが、演奏が終わったとたん、菊地成孔が観客に向かって一礼をし、持っていたサキソフォンを即座にハードケースにしまいこみ、どこからとりだしたのだろう、マスクをちゃっとはめて、即座にあっさりとステージから消えていったこともその美学の内に数えいれておかねばならないだろう。そして、あのサックスのケースは、「じつはステージ上にあったのだ」ということを、彼の消滅の美学ととも感じた者は、おそらくわたしだけだろうと思う。モア・クール。寝ても醒めてもクールである。




さて、となりのガールフレンドは、菊池成孔に釘付けだったそうである。たいして、わたしは、「・・・倉知久美夫は、狂人ではないか?そうではないか?」としまいには眼も当てられないようになり、収まりどころのないいささかの「畏怖心」を抱きながら聴いていた。・・・11時をまわってしまった。すこしつかれたので休もうと思う。次は、なんとしても坂田明の演奏について記しておかねばなるまい。・・・ああ、真夏にぬるいビールを注文するダンディズムよ・・・(2012・7・24)