映画ノート 14



■ サム・ペキンパー 『ゲッタウェイ』 1972





日本刀と拳銃のちがいは何か?もちろん形がちがうし、その構造の在り方や、原材料がちがう。それでは「映画的に言って」、両者のちがいは何か?ちがいは二つある。まずは、そのサウンドである。戦争や抗争が個人対個人のものではなく、集団戦になると、このサウンドの差異はより明瞭になる。ふたつ、それは距離の取り方である。日本刀は相手に近づかなければ相手を殺めることはできないが、拳銃は、遠くから相手を射止め、殺すことができる。そして日本刀には「水平・垂直・斜め」の運動交換、そして、光の反射という特性があるが、拳銃、およびライフルは、いたって水平的であり、固定的であり、より物質的である。






サウンドに関して、重要なことがある。それは日本刀殺人においては、相手を殺すまでに、一定のリズム的音響が刻まれることにあり、なおかつ、そのリズム的音響が視覚的にパラレルに表象されることにある。そのリズムを経過したあとで、「ブスッ」と一刺しやるのだ。拳銃の場合は日本刀よりも、より連続的な、そしてより重層的なリズムを発するにせよ、日本刀ほどには表象されえない。せいぜいのところ、個別の銃口から火薬の煙が発せられるだけである。「チャンバラ」という語の起源は正確にはわからないが、日本刀で打ち合うそのサウンドのことを「チャンバラ」(「チャンチャンバラバラ」)と擬音化したのだとしても少しもおかしくない。一方、拳銃のほうは、「ドンパチ」などといわれるが、「ドン」が撃つ音だとすると「パチ」は相手に命中することだと捉えることができるだろうのか?正確なところはわからないが、重要なのは殺人瞬間のサウンドが、拳銃の場合はサウンド化されないということであり、日本刀はサウンド化されているということである。また、銃は、それを操る主体を見せやすい。撃つ行為においては、スタティックな場合が多く、ゆえに撃つ主体(顔)を撮りやすいのであり、ドラマツルギーに還元しやすいのである。映画撮影のことを欧米人は「シューティング」と言うが、まさに「カメラ=銃」というアナロジカルな次元において、親和化されているのではないだろうか。






ゲッタウェイ』は通算5回ほど見ているが、毎回「面白い。」と感心している。ペキンパーでは『ガルシアの首』(1974)の次に面白い作品で、ひとことでいえば、逃走劇、移動劇である。ストーリーは単純であるが、しかしこの映画の面白さを真に語るとなると、とても複雑な言葉や観念装置を用意しなければならないだろう。先述した、銃と映画の親和性、脚本の卓抜さ、ガラスが割れる音の見事さ、サウンドトラックのクインシー・ジョーンズによるジャズの導入。マックイーンの衣裳として採用されている、シンプルなツートーン・マフィア・スタイル。物を手渡すのではなく、画面をフルに使って放り投げることのフォトジェニー性。連続的、強行突破的判断、そしてなによりもマックイーンの表情に始終漲っているクールの価値。「銀行強盗でしとめた50万ドルを持って、メキシコまで逃走する」という単純明快な物語の中に、男女の愛、そして裏切り、裏切りの裏切りとしてのさらなる愛が描かれている。






それが稼いだ金であれ、盗んだ金であれ、金銭に対する執着はだれでもが抱えていることだろう。そして男と女のあいだで発生する問題は常に、「愛(浮気)と金(損失)」である。(ニヒリスティックな一般化に過ぎないかもしれないが)女は「金持ちの男が好き」というよりも「金それ自体が好き」なのである。ゆえに金持ち男Aは金持ち男Bとすぐさま交換可能なはずである。が、この映画のなかでは、女は結局マックイーンを愛するに留めるのだ。しかし、その結論に至る数箇所で、愛憎のジレンマ(葛藤)が描かれる。このジレンマの導入こそが、『ゲッタウェイ』を単なるクライム・サスペンス風の銃撃ドラマではなく、とても味わい深いものにしている。






だが、監督のペキンパーは、『ゲッタウェイ』を一番気に食わない作品だとみなしている。そして、ペキンパーの撮った唯一のフランス映画だ、とみなす人もいるようだ。