音楽ノート 4


■ スクエア・プッシャー 『ハード・ノーマル・ダディ』





スクエア・プッシャーの2ndアルバム『ハード・ノーマル・ダディ』を聞いた。始めて聞くにもかかわらず「ああ!これだったのか!」と思った。5曲目に収録されている「chin hippy」のことだ。




1996年あたりか、プッシャーがデビューした頃に1stアルバムは聞いていたが、「フュージョン的なジャズ」で知られるウェザー・リポートあたりのサウンドをグルーヴフルに解体しているといった程度の感想しか持てなかった。(それはそれで、斬新な試みだとは思った・・・当時「大流止」(デカルト)というデタラメなコラージュテクノユニットを遊びでやっていたが、「chin hippy」的なサウンドこそがそのデタラメ・ユニットでやるべき楽曲だったのでは・・・と後悔(!)させてくれる、そんな曲でもある。)




YMOを始めて聞いた小学6年生あたりの当時、「テクノ」とは、「機械でつくる音楽」といった程度の認識しか持っていなかった。だが、時間がたつにつれて、それは「西洋音楽のコード(制度)を脱構築したり、解体する」音楽でもあり、楽器が持ってしまう古典的な意味をズラしたりするものだという認識を持つに至った。(例えばシタールだったら「インド」という民族的な固有の意味がくっついてきたり、ピアノだったらバッハやヘンデルなど、古典時代から続く「ヨーロッパ的」という歴史的な意味がくっついてきてしまうことをいろんな書物やらミュージシャンの直接的な意見に学んだ・・・特に『坂本龍一 音楽史』(太田出版)はすごいインパクトのある書物だった・・・この重たい本をかばんの中に入れて、1年くらい持ち歩いていて、いろんな場所で読んだものだった)。その「テクノ」が「テクノポップ」(YMOなど)や「テクノアイドル」(ジューシー・フルーツなど)としてオーヴァーグラウンドシーンを彩ることになった80年代から、クラブシーンによって淘汰される90年代半ばにいたるまで、「テクノ」には一定の印象があったのだが、「ヴァンプ・アップ・ザ・ヴォリューム」や「ブラック・ダリア」というハウス・ミュージックの名曲、そして80年代の代名詞としてあげられるだろうザ・スミスというバンドのリーダーであるスティーヴン・パトリック・モリッシーが持ち上げた808ステイトがブレイクしたあたりに、当の「テクノ」は「ハウス・ミュージック」に席を譲り、その後、急速に細分化され始めた。(むろん、音楽ジャーナリズム的にはもっと違う捉え方があるのだろうし、それはそれでいっこうにかまわない)。





スクエア・プッシャーのサウンドはカテゴリー的には「ドラムンベース」である。(ちなみに関西では「ドラムンベース」と言われていたものが東京では「ブレイクビーツ」になっていたりして、そのへんの捉え方がいまだによくわからない)。「ドラムンベース」は、「ロックンロール」が、「ロック」と「ロール」を「&」によって結ばれた「ロックンロール」であるように「ドラム」と「ベース」を「&」で結んだような楽曲的特徴がある音楽のことだ。しかし、なぜ2つの単語(及び概念)を「&」で結ぶ必要に迫られたかどうかは僕にはわからない。





ここで、僕なりの言葉でドラムンベースの特徴に触れておくことにしよう。それは、いわゆる初期のハウス・ミュージッックにみられた「四つ打ち」(4拍)のベーシックなリズムを解体して「2/4」拍を主要な展開素としている。「3/4」のタイミングから、「4/4」に至るまでに6つの小さな拍を導入している。専門的にどういうのかはわからないが、ドラムンベースの特徴的サウンドを音声化した上で言うと、「ドンドンチーツカツカツカドン」の「ツカツカツカ」の部分のことだ。ごく簡単にいって、ドラムンベースの特徴は、この「ツカツカツカ」によって特徴づけられるといってよい。ちなみに「ツカツカツカ」の音は通常のドラムセットにおいてはハイハットシンバルの音に相当している。





だが、「chin hippy」はドラムンベースという枠組みには収まりきらない「とんでもない迫力」がある。そもそもジャズベーシストを目指していたプッシャーだけあって、どこかフリージャズ的な「混沌の塊」的な要素を欲していたのだろう。その塊こそが「迫力の震源地だ」と言わんばかりに。そして、「chin hippy」以外の曲は中途半端にメロディアスなフレーズを(いわゆる「オカズ」として)起用していたりするのだが、しかし、そうであるがゆえに「chin hippy」がひどく際立ったサウンドだと見なされることになるのだ。




こういってしまえば、「chin hippy」は、たんに「うるさい曲」だと思われてしまう節があるかもしれない。だが、それは一面的な見方に過ぎない。もちろんサウンドは、それ自体においてサウンドを目指している。それは響きを持つだろうし、その響きこそが音楽にとっての(あとには引けない)賭け金となる。プッシャーは、しかし、そのような単純な「響き」をさらに切断する響きがあるということを「chin hippy」において、アッピールしている。




安易なメタファーを許してもらえるならば、それは「サウンドを切断することによって成り立つサイレンスの彫刻だ。」といってもよい。サイレンスの領域はわずか0、2秒であったり、0、3秒であったりするのだが、そのゼロコンマのわずかなサイレンスが高熱の放射能を浴びても決して溶けないダイアモンドの破片ように、最高度の意志をもってこの曲に楔(クサビ)を穿っているのだ。なんと饒舌で、なんと鋭利な沈黙だろうか!




最近はいい音源とのコンタクトが多く、うれしい限りだ。ブーレーズストラヴィンスキー柄谷行人の『世界史の構造』やリチャード・レスターの『ザ・ナック』や、P・K・ディックの短編や近況についても書きたかったが、今日はこのへんで。(2010−10−19)