「2022年からの〈 真の映画史〉」に向けての序説 #4

たしかに、わたしは並外れた「よそもの」です。映画の仕事などひとつもしていないにもかかわらず、〈 真の映画史〉とか言っているからです。でも、それをどうにかしよう、少しでも映画の仕事というやつに近づこう、とするべきじゃありません。重要なのは日々、きわめて個人的なやり方で映画を撮り、映画を撮っているフリをするのではなく、映画を撮り、映画のためのワンカットを繋いだり、ワンショットを撮ってHDMI端子を使ってテレビやプロジェクターで見直すことです。わたしは半年前あたりに撮影専用のスマートフォンを買いました。それは撮影するためだけのものです。現代では撮影機械の最小サイズはスマートフォンです。それにyou tuberらの撮影環境が、とりわけ室内の撮影環境が充実を目指すと同時に撮影ガジェット、照明ガジェットは飛ぶように売れます。でも悲しいかな、それらのガジェットは…なにか素朴な商品、石鹸やシャンプーの詰め合わせセットが素晴らしいとか、北海道で取れたカニがいかに美味しいかを紹介したり、「可愛いわたしを見て欲しい」という欲求の現れを多分に感じられるだけのなにかを紹介するためだけに使用されているのです!もちろんそうじゃない動画もありますが、総じて言えることは、そこには真のイマージュがないということです。そこにはイマージュを作ろうという意志はありません。定着させるべきなにかはありますが、乗り越えるべきなにかがありません。

 

1080pでアップロードされた動画は果たして35mmフィルムに勝るとも劣らない画質が確保できるのかどうかはわかりません。しかしAmazonで2万ないし3万で購入できるプロジェクターで映すにはなんら遜色のないものなのです。

 

 

そうです。テクノロジーが更新されると同時に映画にまつわるあれこれの考え方も更新されるべきなのです。もはや資本主義はそのトンネルの出口を探しているのか、トンネルそのものを壊そうとしているのか、わかりません。「これではなくあれ」、つまり差異を生み出すことにことごとく疎んじ果てた、いちシステムの姿であるにもかかわらず、それでも資本主義は素晴らしいというお偉方がいらっしゃるのはわたしも承知しています。

 

 

 

多数の金持ちはあまり考えません。考える必要なく暮らせていけるからです。しかしそういう状態が続くのはあまり面白いものではありません。「できるならオレも何か画期的なことをしよう、そう、革命とか…そうだな、しかし革命は自分一人じゃできないし革命をしようとしている人たちに1000万投資しよう…そうすれば世の中はあと4.5年はいくぶん面白いものになるはずだ…」そう思っている金持ちも中にはいるでしょう。しかし人生が喪失するのを恐れない人生ではなくなり、どこか守備するべきものとなった瞬間に、すべてゼロに戻るのです。なかったことになるのです。

 

 

 

ある感情を抑えるためには、その逆の感情が同量か、もしくはそれ以上に要ります。「嬉しい」という感情を抑えるには「嬉しくない」という感情が要り、「あいつにムカついている」という感情を抑えるためには「あいつにはムカついていない」という感情が要ります。こういったことは哲学者のスピノザから学びました。きわめて数学的な定理として彼の哲学は成り立っていますが、感情Aと対立する非感情Aの割合を数学的に処理しなければならないということです。でも実際なかなかうまくいかないのが現実生活というものです。わたしの若い頃はかなり言い合っていました。同世代の者にも目上の者にも口論をしかけていました。「君が映画というものを感情で見ているのはおかしい。なぜなら良かった、とか悪かったとか言っているだけだったら、それは感情の奴隷であるに過ぎない」ということを平気で言っていたのです。そこには一定の真理があると同時に一過的な真理しかありません。なぜなら感情というやつはすぐに忘れ去られるもので、結局は「どうしてあの時、あんなに怒っていたのか」とか「あの時あの程度のことで喜んでいたのはどうかしていたと思う」とか、そういうふうに捉え直すことができるからです。しかし、感情を内部に溜め込んでいると、それは取り返しのつかないストレスになったり、憎しみになったりします。だから…コツがいるのです。感情をコントロールするコツがいるのです。人がブチ切れているところを見るのは愉快なことです。しかし、自分がブチ切れるとなると、必ずしも愉快なことではないのです。

 

 

 

多くの物語映画は、登場人物が感情を持つということに極めて大きく依存しています。また感情を露呈するということは大いに歓迎されています。こういったことはおそらくはギリシャ悲劇や喜劇まで遡って考え直す必要があります。演劇は大袈裟な身振りをしなくては観客には伝えることはできません。「オレは今怒っているぞ」というたんなる言明ではなく、身振り手振りで怒りを表明することができなくてはならないのです。おそらくサイレント映画においても、そのようなオーバーアクションが採用されています。そうでないと伝えられないという何かがそこには見出されていたのです。それ以前にヴェルディのオペラやワーグナーのオペラを含めて考えると、どのようにしてそういった感情のアクションと音楽とが結びついてきたのかを検討することができます。しかし残念ながら、それらの映像の記録はありません。しかし、ないからこそ研究者は研究すべきなのです。…日本の能はそれらの、ヨーロッパの演劇装置に比べてアクション的には地味であり、能面からして、感情と非感情の総体として…先に申し上げたスピノザ的な意味での数学的処理のなされた感情表情の総体として捉えることもできます…いや、能の事に関してはまたの機会に語ることにしましょう。