「2022年からの〈 真の映画史 〉」に向けての序説 #1

ふと立ち止まって、ついつい見続けてしまう光景というものがあります。自身の脳にロケハンアプリがデフォルトでインストールされているかのようですが、常に映像によって録画されるべき何かを探しているのです。録画されるのは常に映像なのであってアニメとか絵、イラストではありません。実際の事実としての光景であって、その背後には無数の歴史が重なり合った事実があります。光景との出会いはこういってよければ<電撃的>であり<瞬間的>です。映画の出発点とは、「あるすぐれた俳優に会った」とか「映画の予算となる1000万が手に入った」ではなく「ある光景に出会った」ということもありうるのです。


そしてつい先日、わたしは電撃的な出会いを通過して数日後、それを撮影しに行きました。いや、正確に言えば三脚を持たずに試し撮りに行きました。導かれる者と導く物の関係性が成立していたのです。人間はこちらに語りかけてくるものです。「今日はスパゲッティを食べた。それは美味しかった。」とか「新しいシャツを買った。それは私に似合うと思う。」とかです。しかし光景は何も語りません。そこがいいところです。映像とはこちらに語りかけないからこそ映像なのです。


わたしはサボっていたわけではありません。さまざまな音楽家の演奏や、その他気になるもの、都市の光景、植物や壁、部屋の内部や食器、絵画などを撮影しては、真に撮影すべきものをこちらにたぐりよせていたのです。それにしても撮影したいと思いながらもいまだ撮影していない対象が多すぎるというのも現実です。そう、その態度は純然たる演出家のそれではありません。技術者としての撮影者です。しかし、撮影こそが演出なのです。演出家は本番の撮影後に「おい君、今の表情はまちがっている。もっと眉毛を真ん中に寄せてくれないか」とか「もう一回撮りなおすぞ、なぜなら…」と言うだけです。わたしは、多くの音楽演奏家をかなりの回数撮影して気づいたのですが、撮影とはすでにして演出なのです。なぜなら被写体が「そうだ、オレは、今撮影されている。今まさに…」ということがわかっているからです。その上、撮影者はそこにこそ意識を向けながら撮影せざるをえないし、またそうすることによって撮影者と被写体の間で良好ななにかが生まれるのです。ここには撮影をめぐってのある種のプロブレマティーク(問題提起的要素)があります。それは発展的なものであって古典的なものではありません。(2022/1/5)

 

撮影者、いわゆるカメラマンに監督が指示をするという現場の動かし方には理にかなったところとそうでないところがあります。監督の思うようにカメラが回っていないことがあり、「おい、お前、そんな画角じゃだめだよ。それにこれじゃ露出を絞りすぎだ。画面が暗すぎるよ。」と言ったりするケースがあるのです。カメラマンはやりなおすのですが、なかなか監督の思うような画面に至りません。カメラマンはブチ切れて「全てを任すと言ったじゃないか!このクソ監督め!」と怒鳴ったりします。


つまり……私が言いたいのは監督がカメラを回した方が早いのです。だから監督もカメラを回す術を学ぶべきなのです。「いや野上君、それではダメだよ。演出に徹底できないじゃないか」と言われることもあります。いやわたしはすでにそういった考えを放棄しています。俳優には事前にリハーサルの時間を与えます。それを見ながら「いや、そうじゃない。ここでいったん立ち止まって、一呼吸置いてから、男にバケツの水をぶちまけてくれ」と言うのです。そしてカメラを回せるタイミングになると撮影を開始するのです。つねにリハーサルを入念にするのです。そうすることによって、同時にカメラワークをよりよく変化させ決定させることができるのです。


ヒッチコックの時代は、いやもっと前からでしょうか、ピント合わせの人までもがいました。彼はカメラマンの助手とかいう呼ばれ方をしていて、被写体の動きに合わせて紐のメジャーを使いながら焦点距離を計測していたのです。ピントリングのそばにマスキングテープを貼りそこにペンで記しをつけておき、本番の時にその記しにのっとってピントを合わせていました。完全に指先の作業です。むかしのフィルムムービーカメラにはオートフォーカスなんていう便利な機能はなく、ピントを合わすのも人力で行っていたのです。要するに……カメラマンと監督を分離させていたのはテクノロジーそのものでもあったのです。

 

そうです。テクノロジーの進化に準じて映画撮影のあり方も変えるべきなのです。もっとも複数台でカメラを回すコンサートのような形態においては監督がカメラを回すことはできません。そこには劇映画とはまた考え方のちがうなにかがあります。「盛り上げるためには何をどうすればいいんだろう」というよくあるヤツで、「コンサートがいかにも盛り上がって見えるようなカメラワークとはいったいどんな撮り方なんだろう」というものです。(2022/1/5)