■ 酩酊回廊 10
午前中、テレビに向かってカメラを回す。ずいぶん前に大きめの平面テレビに変え、撮影上ブラウン管のテレビとはとちがい走査線が映らないことがわかった。この場合「それがどのように撮られうるか」という実際的局面においては、画像の電送形式が問題になっていて、(おそらく秒間に何フレーム使って動いているかが問題となっていて)、その数値が同じでないと、録画する側と再生する側が<非同期>ということになり、それを同期させるために変換機をつかって同期させなければならない。液晶ディスプレイの場合、その必要がない、ということだろう。VHS−VIDEOが主流だった時代はヨーロッパで使われているPAL方式と日本のNTSC方式を変換するための特別なコストがかかったけれど、DVDやブルーレイでは変換は全く不用なのだろうか。(現行の映画館では急速にブルーレイによる上映が広まっている)。また、コンピュータのディスプレイに流れる動画を撮影しても、まったく走査線が映らない。(そもそもコンピュータには走査線はない、BIT一元論的なのだ)。けど画面にきっちりピントを合わせるとなると、蜂の巣の最小単位である六角形のユニットのような輪郭が映ってしまい、なおかつ微妙なモアレが発生する。ややソフトフォーカスにするとモアレが消える。
■ 酩酊回廊 11
『ウェディング・ベルを鳴らせ!』を監督したエミール・クストリッツァはけっしてストーリーテラーではない。断片的なエピソードの輪郭をきっちり描くほうを優先している。個々のバラバラのエピソードをあえて強引に有機的につなげ、さらに事後的に解釈したもの、それが物語と呼ばれているに過ぎない、と断言しているようでならない。彼は主張するだろう。物語は事後の解決に過ぎない、と。「物語=死」、その投錨点から出発する(かつてあった)生命への函数的投影、たとえばキリストの死後の「聖書」、ラカンの死後の「セミネール」、米ソの冷戦後のボスニア・ヘルツェゴビナ・・サラエヴォ・・。とある酔っぱらいの死のあとのバッカス=ディオニッソスの最降臨。死して物語が作動する。生前には誰もが口を閉ざしていた、あの「永劫回帰」(ニーチェ)についての物語だ。(だから生前に「永劫回帰」について語る生者はどこかしらバカバカしく映るのかもしれない)。映画は2時間少し。全編にわたる同一(同質)音楽の多用、リフレインには食傷した。彼は本当はめいいっぱい物語りたいのだ、その逆説的反映があの腹十二分目に迫ってくる、ゲップを催すような音楽の乱打なのである。(・・・物語の欠如を埋め合わせる音楽の過剰、演出過多なヴァラエティショウにも比肩しうるような・・・しかし、そもそものはじめから音楽は「適量」を嫌っていた。過小か、過剰かのどちらかであり、足らないか、あるいは満腹かのどちらかである。そして、あらゆる音楽聴取においては適量は、ついにありえなかった。なぜか。適量の音楽は少しも音楽的ではないからだ。極端に大きな音、極端に小さな音を愛すること・・・)。頬の肉づきのよい、村のマセた腕白小僧が結婚相手を探しに都会へ出る。ヤスナという女に一目惚れし、彼女を追っかけることになる。江角マキコ的剛健さを体現しているヤスナは、そのルックスに相応しいと言わんばかりに長い髪をキュッと後ろにしばっている。背筋を延ばし、凛として、ときに侠気たっぷりにすごんでみせる、そんな女だ。麦わら帽子を被っているときはわざわざ帽子の後ろに開けた穴からテイル(髪のしっぽ)をヒョコンと出している。そこまでして、彼女は「髪を降ろさない女」なのだ。そして(類型的/映画的に)髪を降ろさない女というのは、ここぞ、というときに決まって髪を降ろす。その瞬間のためにだけ、彼女はいつも髪を縛り上げているし、そして、いつでも髪を降ろす用意はできている。ちなみに全編、画面は黄砂に覆われたような暖色に包まれている。フィルムはコダックか、なんだろう。
■ 酩酊回廊 12
もう終わっているが、例年のごとくサマーセール、あるいは夏のバーゲンなるものをあちこちでやっていた。渋谷にある109(ちなみに109は東急が経営母体なので109なのだそうだ)というティーンの女の子が集まるファッションビルの地下二階に「SLY」という店があり、「SLY」という文字だけ簡潔にプリントしてあるTシャツがあったら是非購入したいとの思いで足を運んだ。(ちなみに僕はこの世で一番美しいアルファベットの配列は「SLOT」だと最近まで思っていた)。だが、そのようなTシャツは探してもなかったし、店員に聞いてもないということだった。ところで、109の地下1階、2階とメトロの半蔵門線の改札は同一の床で通じている。109内のエスカレーターに乗らずに、SLYを出て、右に折れて少し重いガラス扉を開けると左手は当のショップの壁、右手に消化器と消火栓のボックスがあり、まっすぐ行くと、メトロの方へ直行できる。その場所はどんなに渋谷が混雑していようとも、人が極端に少ない。スケボーの練習を悠々とできるほどに閑散としていて、いつも驚いてしまう。ああ、今日もここには誰もいない、と嬉しくも悲しくもないが、どちらかといえば嬉しいような感覚にゆっくりと、歩行にあわせて変成してくる。109内の喧噪状態(どうしてここはクラブで音楽をかけるように音楽を大音響でかけているのだろう)とスクランブル交差点の雪崩のような群れと、この地下の醒めきった静寂のコントラストには、目を見張るべきものがある。そして『都市の肖像』『一方通行路』を記したヴァルター・べンヤミンなら、この一帯をどのようなアフォリズムで捉えるのだろうか、とここを通るたびに思うのだ。ひとむかしまえか、109はコギャルの「メッカ」と喩えられていたようだが、この地下、不気味に喜ばしい静かな地下の一面はもうひとつの皇居前広場なのではないか、とぼんやりと頭をよぎることがある。新宿を歩いていても詩的な感性(かりにも僕にそういう感性があるとすればの話だが)は呼び覚まされないが、渋谷を強い酩酊状態でゆっくりと、ヴァレリー・アファナシェフのピアノのようにゆっくりと歩いていると、何かをはっきりと捉えたい、しかもはっきりと「詩的に」とらえたいという衝動にかられることがあり、それが渋谷のよいところだと思っている。