■ 酩酊回廊 1
器に凝る性分でもないが、徳利と盃だけはなんでもいいというわけにもいかず、通年使っていたモノにもとうとう飽きがきて、あたらしいものを求めに新宿の百貨店に出向いた。ガラス製の徳利型をしたものが、盃2つと合わせて売っていた。下っ腹の部分の紫とも藍ともいえない涼やかな色見の案配がなかなかのもので、少々値が張ったが購入した。冷酒器は燗用の徳利とはちがい、冷気を保つための工夫がなされており、ガラス加工の工程で、胴体をポコンと内部にへこませてある。(おそらくプリンをスプーンでくり抜くような動作を施すのだろう)。子を孕んだ女の腹のような、そういう入れ子の格好が滑稽味たっぷりで、しかし、concept なる単語が「孕む」や「孕ます」という動詞をも意味していることから、conceptual 概念的な物体であるようにも見えてくる。山田錦を一合半くらい、肴は茄子と椎茸、ししとう、胡桃を網焼きで炙ったものあたりですませるのが良い。椎茸は出汁取りにつかう以外は断じて「炙る食材」であって、香の妙味が炒めた場合とまったくもってちがう、とかなんとか、やや窮屈なことを考えながらも酩酊回廊に身をさざめかす。
■ 酩酊回廊 2
なぜなぜどうして、酒を絶やす月日はまったくない。小事大事にかこつけて今日はコレ、明日はアレと、忙しくやっている。暑くなると酒の呑み方が、がぜん難しくなってくる。暑さに輪をかけてともなうアルコールによる体内帯熱で、酩酊の十全な効果を得ることがますます稀少かつ困難になる。寒い地方などでは慣例だろうが、冬は暖をとる機能をも果たしていて、味が二の次になり、美酒妙酒が凡酒に体たらくすることもしばしばである。秋春は光の微細な変化とともに織りなされるルソー的自然主義の彩いを外界に照らしながらの酩酊が多い。いかにも、水を飲むように呑んでいるへっぽこ酒もあるが、通年通時、古今東西、酩酊以外の付加価値、酩酊以上の酔いを酒中に見いだすのは自明の営為であろう。問題は酩酊によって酩酊を超越せんとする「酩酊術」なのだ。季節問わず、屋外、風合いを愛でながらの酒は格別に旨い。店に落ち着いて下手な世間話を聞きながら呑むよりは、格段に酩酊そのものの喜悦に近づける。酒呑みにも感受性のいろいろがあろうが、風光明媚と酩酊を馴染ませながらの酒がいちばん旨いと長らく確信している。
■ 酩酊回廊 3
ずいぶん前から夕焼けが見事な月は七月をおいて他にないと合点していて、日没前30分あたりから、西に首を向けながら盃を傾けるのが好きで、想い出したように出かけることがある。そうはいっても、見事な夕焼けなど年に数えるほどしか拝むことができない。今日は当たり日であった。夏という夏の荘厳さを予言するような、烈火のごとく燃えさかるような、鈍い臙脂色に強烈な光をあてて溶かしたようなそれを覚知してしまうと、文学的感傷に堕してしまうことなく、夏のいまひとつの絶対単位である「夜」を開始することができる。夏の夜は人格を持っている。
■ 酩酊回廊 4
どうしても木にもたれかかって読了したい書物があり、近所の公園(きたみふれあい広場)へと出向く。これだけ暑いと、出不精になるのだろう、ちらほらとしか人がいない。だだっぴろい芝生や植え込み、手入れのいきとどいた花壇などがまるで宙に浮いているようだ。敷物をしき、簡単に調理した付け合わせを出し、竹を割って作ったぐい呑みに冷酒を注ぐ。谷崎潤一郎の『陰影礼賛』。節電が叫ばれる昨今、この書は絶大な最脚光を浴びてもおかしくはない。谷崎は節電こそが陰影礼賛だ、と言っているわけではないし、節電なる語は一度として出てこない。18世紀あたりにヨーロッパで展開した「光の専制」(世界の図鑑化、辞書化にも連結されるような)があり、「明るい=善」というイデアがあり、戦後の西洋中心的な平板な合理化によって日本人はだいぶん損をしていると喝破しているのだ。おおいに節電するがよい、だが節電に美学という反射板をただちにあてよ、と言っているのである。しかし谷崎が真に問題にしているのはじつのところ陰影そのものではなく、闇と陰影の相対性である。わずかな光量によってしか浮かび上がらないだろう美、闇という容器に入れてはじめて浮かび上がる、あの妖艶なる女体美を。しかし谷崎は「幽玄」なるタームを執拗に避けつづける。なぜなら彼はあくまでも「生きた女」が好きだからである。