酩酊回廊 5〜8


■ 酩酊回廊 5



木陰で『ハインリヒ・ベル短編集』。「スパルタ」「黒羊」「笑い屋」、と3つの短編を読む。純粋なる「享楽的読書」が目的ならば、そのジャンルを問わずして、接近するのがよかろう。長編小説は、「最初から最後までちゃんと読んでくれ」と懇願しているもっとも強い形態なので、読むには苦行感がともない、つきあいきれなくなると、二度と読まないというものが多い。どうして苦しみながら読む必要があるのか。ところが、短編やエッセーとなると、話が速い。俳句、短歌、詩集となるともっと速い。編集者の意図を無視して読む順番もバラバラにできるし、読まない短編があっても、別の機会にまわせる。いつだったか、その著者の名をストローブ&ユイレの映画関連の著作に見いだしたのがはじめてだった。「九時半の玉突き」、そんな表題の小説を原作にした映画があるということで、その作者がハインリヒ・ベル。なにかがきっかけとなって読んで、冒頭のフレーズがなんともいえず素晴らしいものだったが、しかし、今はそのタイミングではない、いつか読もうと、記憶に留めていたつもりで、なお、その装丁までもが克明に想い出されたので、絶版を含めた岩波の赤版を探しに探したが「九時半の玉突き」なる表題のものは出版されていないことがわかり、記憶ちがいだった。冒頭に収められている「スパルタ」の最初のセンテンスが「九時半の玉突き」なる(スタティックだが、これから動きだしそうな)タイトルに、しっくりきすぎたのか。公園には人っこ一人歩いていない。夏の二元色、青と緑が読了後の目を覆い、ぼんやりと遠くの海沿いに走っている閑散とした列車のコンパートメントの暗がりを考える。水が恋しいのか、静寂が恋しいのか。口に流し込むワイン、ぬるいロゼ。






■ 酩酊回廊 6



女ともだちによると、山口百恵の有名な曲のイントロダクションである「これっきり、これっきり、モウ」の「モウ」の部分を絶賛している男がいるらしく、しかし、そう告げられたとたんに、久保田早紀の「異邦人」における「ちょっと」(「ちょっと、振り向いてみただけの」、の「ちょっと」)の方がはるかに素晴らしい、と咄嗟に反応したのだった。つい先日、撮影の合間に、屋外でミネストローネ風の夏向けの鍋をみんなで作ってかっ食らいながら談笑していた時のことだ。最近、久保田早紀のベスト盤「BEST OF BEST」(最高の中の最高?)をほんのたまに聴いていて、よい曲は「異邦人」「真夜中の散歩」「ピアニッシモで」の三曲だと踏んでいる。おなじみの「異邦人」のイントロダクションは血気さかんな、攻撃的な三拍節からはじまり、つづいて対照的に非力な子供の情景が歌われる。「子供たちは空に向かい、両手を広げ」なんて歌われると、当の子供はかえって困惑して聞き入ってしまったのかもしれない。小学校の音楽教育では習いそうもない旋律であり、しかし、絵本などを通して感知していたのであろう異国情緒というやつを楽曲化したものが久保田早紀の「異邦人」だったにちがいない。(それはさておき、ヴェルディに「トゥルバトーレ」という中世の騎士道を讃えた曲があり、篝火をさし上げた戦士たちの意気高揚が奏でられているのだろうこの曲と「異邦人」のイントロがダブって聴こえるのはどうしたことか。)山口百恵の「モウ」も、聞き返してみた。そこで「まあ、エロティックだな、」という感じ以上のものをかりそめにもつかみ取れたとするならば、女が男にフラれかかっていてもなお、「これっきりではないでしょ?まだ続くんでしょ?」という未練半ばの溜め息の延長上に発せられた声なのだと察知した。異邦人の「ちょっと」は、通常の「ちょっと」とはちょっとちがう。記憶の古層に眠っているかつて愛した男がいることを想起しつつ、異国をただたださすらうだけのエトランジェの時間旅行。その継起的持続のなかで、「あなたにとって、私ただの通りすがり」と、歌われているのだけれど、より正確にいうと、「私はあなたにとって、やはり、通りすがりの人に過ぎなかった」という過去完了、いわば関係の絶対的終焉が歌われているのだ。ここには一見、いっさいの過去への追慕がない。しかし、にもかかわらず、あなたがいるかもしれない、と期待して、「ちょっと」振り向いてしまう。気がかりな何か、思わせぶりな、あるのかないのかわからないような、何かを期待して、いや、なにもないと自分に言い聞かせながら、そういうことに注がれる感性や想像力のすべてを五臓六腑に染み込ませ、なおも、ついさっきまで重かった頭をしゅんと上げ、ある瞬間に女はとうとう振り向いてしまうのだ。ああ!目前にはしらじらとした砂漠が広がっているばかりだ。(あるいはばかりだった。)そうして、女は一瞬の落胆をよそに、すぐさま宙吊りになった時間を捨てる。ナイフで切り落とした魚の頭を捨てるように。そして砂に埋もれた魚の頭が、いつしかダリの絵のディティールのように変成するまで、旅を続けるのだ。かくして現実は現実によって超えられてゆく。ちょっとした現実が、次に準備された現実にまたたくまに、覆いつくされ、そして、ながいながい旅が続いてゆく。最高のエトランジェ(異邦人)は、すでにしてランジェ(天使)であるのだから、そう、高みに昇る必要はないのだ。トラヴェリング。水を散らし、大気を散らす蟹のように。






■ 酩酊回廊 7


午前10時、人にいただいたスペイン産の珍しいビールをまっさらの6オンスのタンブラーに注ぐ。木陰でハインリヒ・ベルの短編集のつづき。予感はしていたが、かけがいのない、というか取り返しのつかない作品を読んでいるのではないか、との思いが占め、途中でページを閉じる。酔いが回ったあとに長年使っているibookG4を開いて、男優に送る手紙の草稿を書く。外人の親子3人がやってきて、テーブルの上にピンク色のランチボックスを開け、なにやらむしゃむしゃと食べ始める。ベルを読んでいたためか彼らの言葉がドイツ語のように思えたが、食事もよそにかくれんぼが突然はじまり、小さな女の子が声高に英語で数を数え始めた。フィフティートゥー!、フィフティスリー!、そんなふうに。手紙の草稿を書き終え、次はここでギターの練習でもするか、と思い立つ。午後は地元の女ともだちと会う。春あたりにステーキを食べに行っていらいなのに、1年くらい会っていなかったような気がする。えらい背がのびたな、と足下を見ると、高い靴を履いていた。トゥーマッチ(?)な6、5cm。今回は近距離にタクシーを飛ばして蕎麦を食べに行く。蕎麦の中になぜ「麦」という漢字が含まれているのか、と女に質問すると、顔がむくれている、お酒の呑み過ぎ、と返される。冷酒をげほっと吐き出しそうになった。なぜか蕎麦屋のBGMがオーネット・コールマン&ヨアヒム・クーンの「FAXING」、涼しく、滑らかな音だ。6時半、タマ川まで出かける。日が落ちて30分か40分、西の空をじっくり眺めていた。画家のルソー(アンリ・ルソー)はこういうことをやりたかったのか、と妙に納得する。砂漠でギターを持ったソヴァージュの女、月影となったライオン。あの絵のことだ。まったくもって好きな画家ではないけど、少し見直してみようか、という気になった。帰り道、満月がすばらしく大きく、良く焼いた目玉焼きの黄色をしていた。白い薄膜に覆われた黄身、夜におさまりどころの悪い月。そしてmoonとnoonは一字違い。ついに平面であることを止めた月。・・・さて、映画作家よ。御身の視覚という視覚から放たれた物神商売のすべてよ。まずは天文に忠誠を誓おう。とりもなおさず、われらが天空のすべてに知愛を放って。






■ 酩酊回廊 8


散髪したあと、やや身軽になって、ずいぶんながらくご無沙汰していた下北沢に出向く。CDと書籍を買いに。雑踏に揉まれつづけるのはかなわないので、徘徊するのは12時から15時までと決め、うち2時間をCDショップで物色することにする。カルメンミランダ、サンディ・ショウ、オスカー・ピータースン、エリック・ドルフィ、ショスターコヴィッチ、シュワルツコップなどを購入。コンビニでCORONA EXTRA BEER、レジカウンタで栓抜きしてもらう。一口目がとっても美味い。すずなり劇場の裏手にある教会の敷地で少し憩う。結局、本は買わなかった。どうやらハインリヒ・ベルのインパクトが醒めやらぬようだ。(ハインリヒ・ベルのサイト→http://www.electroasylum.com/boll/)