AKB48からの気づき


■ AKB48からの気づき



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AKB48の曲を聴いたのは、いつだったか?何だったか?は、もうはっきりとは思い出せない。甘すぎて、胃がもたれそうな砂糖菓子をふんだんに盛り付けたような衣裳、顔だけみれば、可愛い人もいるし、そうでない人もいる。若い女性がニコニコして、元気そうに、踊りながら歌う。それ自体はとてもいいことだ。最初に思ったのは、そういう単純明快なことだった。だが、今年になってから、AKB48のヒット曲を注意深く聴いてみた。普段、まったくテレビを見ないが、(最近少し見たいと思うようになってきたが)元旦の帰省時に、実家のテレビでレコード大賞と、紅白歌合戦を途中まで(正確にいうときゃりーぱみゅぱみゅの「ファッション・モンスター」まで)見た。そのときに流れたのかどうかははっきりしないが、AKB48は『ヘビー・ローテーション』を歌っていて、なるほど、これは聞き覚えがある、と思った。おそらく東京の山田電気Labiとか、BICCAMERAのテレビ販売コーナーで数回聞いていたのだろう。そのときは、「アイラ〜ビュー、アイウォンチュ〜、アイニージュ〜」という何度も何度も繰り返されているウルトラステレオタイプのコーラス部分が気になったことを覚えている。物事をパターン化して考える癖がたまにあるので、その三段階を「青年期のラブ、中年期のウォント、老年期のニード」という恋の退廃過程として、一定程度普遍化できるものとして捉えていた。マルクスの指摘を待つまでもなく、青年期における人間は抽象物だが、老年期が近づくにつれて物質化がエスカレートし、最後はたんなる物となる。



ポップスの生命線は、まず受け入れられやすいメロディにある。もちろん、リリックの良さ、共感しやすさも、その受容に拍車をかける。その両面から検証していきたいと思う。



まず、AKB48のヒット曲のリリックにおいては、主語に「僕」が選択されている。作詞家の秋元康が男性なので、「僕」のほうが書きやすいということもある。しかし、歌っているのは女性である。たとえば、「ギンガムチェック」で歌われるのは「僕」の内面であり、ギンガムチェックのシャツを着ているナイーヴな「僕」の内面世界を秋元康が想像的に作り上げ、その世界を女性が表象=代行(re-presentation)している。AKB48のファンのおおかたは男性なのだろうし、それはそれでマーケティング効果として正しいのかもしれない。主語に「わたし」や「あたし」を持ってくるのではなく、「僕」を持ってくることによって、共感者をより多く作ることができる。たとえ、彼らがギンガムチェックのシャツを着ていなくても。



この現象は、何も今に始まったことではなく、かつ珍しいことでもない。過去を遡ってみれば、いくらでも出てくる。たとえば、甲斐バンドの「そばかすの天使」は主語が「アタシ」であり、「アタシ=女性」の内面世界を男性ヴォーカルが代弁している。マイ・リトル・ラバーの「ハロー・アゲイン」の主語は「僕」であり、「僕」の内面世界をボーカルの女性AKKOが歌っていた。(以上1月27日 つづく)



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女性の口から歌われる「僕の世界」と男性の口から歌われる「僕の世界」はちがう。女性からの「僕」は「トランス・ジェンダー的」といえる。男性からのそれは「性的同一性」のノーマライズの強化、いわば「トランスレス・ジェンダーの強化」であり、ヘテロセクシュアル異性愛)のもっともたる根拠となっている、といえる。



遡行的に考えてみよう。前回でも触れたが、「そばかすの天使」甲斐バンド(1977)は、AKB48のパターンとは逆に、男性が女性になりきって歌う歌である。主語に採用されているのは、「わたし」でも「ぼく」でも「オレ」でもなく「おいら」でもなく「ミー」でもない。「アタシ」である。・・・「♪アタシを捨てて行ってしまったー。あんたの背中にー。好きよ好きよ、と何度も♪」と、冒頭部で歌われている。甲斐よしひろ女形が非常に上手である。このトランスジェンダー(性倒錯)においては、彼の演技(パフォーマンス)は秀逸であるが、これは主観的意見である。



また、甲斐バンドには「きんぽうげ」(1977)という歌があり、この歌詞の冒頭では「♪あなたーにー抱かれるーのはー、今夜ー限りねー♪」とまたしても女形を演じている。だが「きんぽうげ」は「そばかすの天使」とは、やや異なっている。なぜなら、冒頭部のフレーズを歌ったその直後、<「女」の演技から「男」の演技へと移行>し、より複雑な場面構成を実現しているからである。甲斐よしひろはベッドの中にいる男と女の、その両方を演じているのである。つづけて歌われるのは、「♪さびしすぎるよ、そんなセリフ、似合いはしないー♪」である。(しかしながら、先にも触れたとおり、歌詞において、ジェンダー交換するのは、何も珍しいことではない。おそらく演歌の世界ではもっと過激にかつ多様に展開されているはずである)。(以上1月29日 14時 つづく)





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先ほど、甲斐バンドの歌詞をとりあげ、「そばかすの天使」(1977)「きんぽうげ」(1977)のリリックにおいて、また甲斐よしひろのパフォーマンスにおいて、トランスジェンダーが表現されていると指摘した。もう少し例を出してみたい。トランスジェンダー文化の価値づけにおいて、それを決定づけたもののひとつに「宝塚」があげられる。もともと大阪と兵庫と京都を結ぶ「阪急電車」、その兵庫県内の終点「宝塚駅」を作るにあたって、郊外地である「宝塚」へのフロー(人員のフロー、すなわちキャッシュフロー)を実現させるために、阪急の経営者小林一三の文化戦略として、「宝塚歌劇団」が組織されることになったのだ。1913年、大正2年のことである。



いうまでもなく、宝塚歌劇団の団員はすべて女性であり、また現在において女性が男性役を演じることが当然のこととして世間一般に受け入れられている。おそらくAKB48のヒット曲の歌詞において、「僕」が採用され、「僕=男性」の世界がその歌詞に投影されていることに、「不自然さ」を感じない、その理由は、トランスジェンダー的なパフォーマンスが、歴史的に形成されていることにあるのかもしれない。ここで、少し気の利いた読者なら「歌舞伎」を想起するかもしれない。「歌舞伎」もまた、トランスジェンダーを巧みに利用した表象形態であった。その場所においては「女人禁制」というイデオロギーが強力に機能しており、近世の文化的な価値が「男性優位的」であることに一定の「保証」をもたらすものであった。



ひるがえって、AKB48を再観察してみると、事態がやや複雑になっていることに気づいてもらえるだろう。AKB48のヒット曲においては、その服装においては完全に女性でありながらも、そのリリックの表象主体は完全に男性なのだ。(以上1月29日 21時 つづく)




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1月30日の晩に、AKB48のメンバーが、グループ内の「恋愛禁止の掟」を破ったとされ、それを謝罪する動画が流れているのを見た。翌日話題になっていて、好き放題勝手なことをべらべらとしゃべっていた。今は2月2日の深夜だが、酔っぱらっていて、そのとき何を言ったのかだいたい忘れてしまったが、思い出そうとすると、「AKB48はやはり軍隊(ミリタリー)に似ている」という趣旨だったと思う。AKB48関係者が「日本を守っている」というつもりが、それが「つもり」だとしても、どこまであるのか?どうか。外貨をどこまで稼げているのかどうか?は知らないが、そのうちアジア諸国にも飽きられて、見放されるだろう、と思う。(ところで、このニュースはアジア諸国に流れているのだろうか。この前近代的事件。)






かつて「美しい国」を提唱していた安部の閣下で、国内大規模の「文化産業」を執行しているというAKB48の関係者のとんでもない「思い込み」(翼賛体制)がもたらした、ちょとした出来事だ。あの、「文化産業嫌い」のテオドール・アドルノなら、どうコメントするだろう。個別のメンバーは、組織を裏切って、パトロンを見つけて、謀反をおこせばいいと思う。そのための恋愛であり、「恋愛こそが革命的だ」というのは、まさにそういう意味においてである。そして、東浩紀ツイッターでの発言をまとめたものが出現したが、くだらないので、30秒で閉じた。「上からマリコ」さんは読まなくていいだろう。





秋元康がAKB鉄道(場所は中越、東北がメイン)を敷き、AKBデパート(本店は北海道)を全国展開し、これが成功すれば、帯広に巨大かつ高性能な映画撮影所をつくる。(が、ギャラはすべてジャガイモでの支払いになる)、あとはプロの女性野球球団(ホームグランドは軽井沢)などを組織したあげく、かつてのスターリンのように振舞えば、東浩紀はやっとのこと、「音楽」をちゃんと聴き始めるようになるだろう。と、これは冗談だけど。(2月2日)