映画メモ









撮影者はショットする。が、これは間違っている。ショットは英語学的にはシュートの過去形であり、なので、撮影者がカメラを回しているときはシュートの進行形、シューティングとなる。アイム、シューティング。アメリカ人は言う。女をくどいてるときも。

ショットとは、撮影行為に対する概念で、撮影カメラが回りはじめて、回り終わるまでの時間が1ショットの内実になり、1ショットは、編集者にとっては1カットとなる。ショットとは、まずは撮影者(カメラマン)にとって重要な概念であって、編集者、ディレクターにとっては1ショットはひとつの素材−1カット、となるにすぎない。(コンピュータ上のエディティングでは1カットは1クリップと名称変改される場合が多い)。

ショットとは、もともとショットガンという名称にみられるように、「発射」とか「発砲」の意味あいが強く、映画カメラは「銃のメタファー」としてしばしば表現された。というよりも、それ以前にエディソン、ダゲールにつらなる発明者、エティエンヌ・ジュール・マレーが「映画銃」なるまさしく銃型の撮影機械(松浦寿輝による優れた論考がある・・・『表象と倒錯』)を発明したことによって、撮影行為とは「狙う」行為であり、被撮影者(被写体)は、「狙われる者」といいあらわされる素地ができあがったといえる。

ショットとは、現在、過度に貶められている概念であり、実践である。カメラワークのワークの部分があまりにもなさすぎるのだ。とだいぶん以前に、ここで書いたおぼえがあるが、去年の夏に公開された『ゼロ・グラヴィティー』は、あくまでも「ショットの映画」として、玄人肌(シネフィル?)を喜ばせたといってよい。ながったらしい「ワンシーン・ワンショット」のシークエンスであるが、これはヒッチコックの『ロープ』に連なる系譜として「映画好き」に記憶されるにちがいない。(わたしは、当の・・・非常に審美的な・・・ヒッチコック作品以上のものではないとして、それ以上に子供だまし的な内容に関して評価していないけど)

カメラワークのワークとは撮影行為の可能性を拡張するものであり、クリエーションの自由度を保証するものだ。スティールカメラがポジショニング、およびフレーミングという二つの行為しかもちえないのだとすれば、映画カメラ(ムーヴィー)とは、それらに加えて、映画カメラを動かすというワーク、つまり、カメラワークを介在させることができる行為なのである。それがハンディのワークであれ、メカニカルな仕掛けを使ったワークであれ、映画ショット(具体的な画面)の美学的側面、その判断を促す格好の自立的媒介を提供することになるだろう。


昼間、ついつい横になって寝起きに渦巻いていたことをあえて記述しておいた。「映画史におけるもっとも美学的な1ショット」について具体的にメモしておきたかったが、時間がない。

リュミエールの撮影した「動く列車、金魚鉢の金魚、ホースから放出される水」など、映画カメラはその撮影対象として「動くもの」をよりいっそう好んできたのはいうまでもないが、「静止している対象」を映画カメラを動かすことによってまた別な対象Xにしたてあげることができることも、あらためて確認しておきたい。