「2022年からの<真の映画史>」に向けての序説 #3

 

 

 

語り続けなければならない、という以前に考え続けなければならないのです。そして撮影し続けなければなりません。しかし、この「何々せねばなりません」というのはかなり窮屈な何かです。「オレは考えたい時に考えるさ」と言った方がはるかに気楽です。他人に対して何か強制するという圧迫感がありません。重要なのは、無意識の流れに沿って、自動的に考え、語ることです。ここまでは何もいりません。

 

 

だからそうするべきなのです。考え語ることは、あなたの脳と口さえあればできるのですが、書こうと思えば鉛筆や消しゴムが要ります。JIS配列なりUS配列なりのキーボードが要ります。書きながら考えたり、過去にとったメモを参考にしながら考えるということもできます。しかし、撮影しようとなれば…あなたが考えたり想像した創造的な何かを撮影しようとなれば…撮影カメラが要ります。それをより丁寧に撮影しようとなれば照明装置が要ります。そして「おや?おれの撮りたかったものはこんなんじゃないぞ。」と言って、光を強化させるためのレフ板や、影の定着を和らげるためのフィルターなどが要ることに気づくのです。

 

 

そうです。わたしは近いうちにある演奏者の撮影をするのですが、一体全体どのように撮ればいいのか?という問いを自らに課しています。「いいさ、その日、その現場で考えるさ」と言うこともできるのですが、事前に用意するべき何かがあって然るべきなのです。何の演奏かといいますと、韓国の楽器であるチャンゴというものです。演奏者は女性なのですが、わたしはずいぶん前に、といっても2020年の暮れにその楽器演奏を見ました。サムルノリという韓国の独自の芸能があり、それは音楽と踊りの組み合わせなのですが、そのレコードを聴いたことがあるにもかかわらず、なまの舞台や舞台上演の演奏のビデオなどは見たことがありませんでした。チャンゴはまさにそのサムルノリの演奏時に使われる楽器で、最初は放浪芸のような何かだったのですが、次第にキム•ドク•スーという男性が現在のサムルノリのスタイルとして定着させたのです。そこでわたしはきれいな洋服を着てスタインウェイなりYAMAHAなりのピアノを弾く女性よりも、サムルノリで使用されるチャンゴという打楽器を普段着で演奏する女性の方が興味深いということに気づきました。まさにチャンゴという楽器はあまり知られていません。銅鑼(ドラ)が知られているほどには知られていないのです。

 

 

ある程度、文明が発達すると…というか文化が成熟してくると、「もっと違う面白い文化はないのかね?」となります。わたしが覚えているのはワールドミュージックという商売用のパッケージであれやこれやがもてはやされていた時期です。そこではあたかも「欧米文化ではもうダメだ」というような風潮があって、独自の聴取コミュニティを形成していました。音楽においては…まさしくバッハ以降の平均律以降の音楽においては、「単純ななにかの繰り返しだ」という印象を持ちます。それは現在のJ-POPまで連綿と続いているのですが、そうではなく、最初から(c音からはじまる)7音音階からはズレていて、なおかつそもそもからしてチューニングがちがうようななにかを感じさせるような音楽は世界中にあるのです。今更ながら思うのですが、映画は、こう言ってよければ「映像と音響の組み合わされたなにか」はそういったより特殊な音楽を紹介するのにも役立ってきました。わたしはマドンナのPVやフランク•ザッパのPVのことを言っているのではありません。ワールドミュージックを扱ったものではないのですが「ステップ•アクロス•ザ•ボーダー」という映画を1990年代半ば頃京都駅の脇ににあったルネサンス•ホールで見ました。これはスイスの若い男二人組が共同して作ったものです。そこではフレッド•フリスというギター奏者が大きく取り上げられているということで観に行ったのですが、フリスの音源を聴いていても分からないことがわかりました。それこそ映像の力であり、編集の力なのです。ギターの弦に向かって米粒を放り投げて、あのサウンドを作っていたなんていうことはCDを聴いていても分からないことなのです!

 

 

映像は音楽を欲しているし、音楽は映像を欲しています。それらは最愛の夫婦のように仲が良いのです。そして絵画は…いや、この話は後回しにしましょう。…もしくはトーキー映画の出現以降に音と映像の仲を引き裂いたなにかがあるとすれば、ストローブ&ユイレやゴダールの映画ということになるのでしょうか?彼らの映画では映像を盛り上げるための音楽という視点がありません。いや、解釈のしようによってはあるのですが、そういうことに、つまり盛り上げることに対して懐疑的でありその懐疑こそがフィルムに定着しています。グスタフ•レオンハルトが出演している『アンナ•マグダレーナ•バッハの日記』では、演奏が少しも盛り上がっていないような撮影方法が採用されています。いっぽうバッハの時代の音楽家の衣装やカツラのリアリスティックな何かはそれ自体盛り上がっているような感じを与えます。演奏シーンが長く、そして突然紙に書かれた文字が大写しにされて、それは不自然だ、といってもいいほどの早口のナレーションが被さったりします。そしてまた退屈な演奏シーンが続きます。それが悪いと言っているのじゃありません。