美術ノート 15




■ 企画展「 ET IN ARCADIA EGO 墓は語るか 」 武蔵野美術大学内 その2





わすれないうちに、書きとどめておこう、まずはジャコメッティの彫刻。アルベルト・ジャコメッティの彫刻については、幼少期にどこかで見た記憶がある。写真かもしれないし、親が連れて行った美術館だったのかもしれない。どういうわけかクレーの絵とともに「カルピス」という飲み物と関連してジャコメッティの彫刻が記憶されているが、それはきわめてイマジナリーな関連づけ。あのやせこけた針金のような細い身体像は、現代の子供たちにも強いインパクトを与えるだろう。今回見たのは「横たわる女」(1929)で、形状は、あのジャコメッティ・スリムとはほど遠い。どちらかといえばファットでユーモラスな形状で、コメントに書かれていたようにしゃもじと酒器を組み合わせたようなカーヴが強調されている。真正面から見て、次に真横からみると、ジャコメッティのこの作品に賭ける狙いがわかるかと思う。彫刻をどの方向で見るのが正しいか、ということにかんしてはおそらく回答はない。どこから見てもいいし、しかし、どこから見ても同一の作品なのだ。平面作品との対面的正面性から逃れたいとなると、作家は彫刻に以降すべきである、すみやかに、と強く思う。そして、ここにエトルリアの文化から影響を受けたジャコメッティが顕現している。作家のジャン・ジュネが「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」というすばらしいエッセイを書いていて、そのなかで「乞食の芸術だ」と規定していているが、「横たわる女」はむしろ物質の豊穣さを讃えているように思えた。





つぎにイサム・ノグチの『クロノス』(1947)。広島の「Memorial the dead,Hiroshima」・・・原爆記念慰霊碑のために制作された立体作品で、垂直にたれさがる鐘状の物体。時間を水平的にとらえるというよりも、垂直的にとらえているということがまず判然とわかる。そして上下の(時間の後先の)ヒエラルキーをなくすこと。アンリ・ベルクソンは時間の存在を単純な円錐の形状にたとえていた(砂糖が溶けるためには時間がいる!)が、その批判的応答だとも思えた。ノグチの時間観はもっと複雑怪奇だ。1947年は終戦の2年後であり、また作家の父親ヨネ・ノグチ(詩人)が逝去した年だった。





同じくイサム・ノグチの『かぶと』。武具の兜に形状が似てなくもないが、誰でもわかるようにこれは「銅鐸」に似ている。が、片方の斜面からニョキっと棒状のものが突出しており、まったく実用性を考慮していない何かである。これはもともと『WAR』というタイトルだったとコメントに書かれていた。(つづく)