美術ノート 16


■ 月とリンゴとつきまつげ 長峰麻貴個展  ギャラリー58




どうも「かぶること」が嫌らしい。「かぶってはダサい、粋でない、クソ!しまった!!かぶってしまった!」となる。一方で、「うわ、あの人おんなじデザインのシャツ着てるう、ちょっとうれしいわー、見て見て、あの襟、一緒だよ〜ん。」となることもあるようだ。




いずれにしても原因は「シンクロニシティー(共時性)」にある。一定の感性がはたらきやすいのは、シンクロに対してであり、都市という器は、このシンクロ成長を大事にしてきた。シンクロ成長率を上げるためには、同一性の確保が問題になる。これは自明である。まず同じような「暑い」、同じような「のどが渇いた」、同じような「ガリガリ君?やーねえ。中学生の部活じゃないんだから・・」、同じような「熱中症やばい」などなど。しかし、注意すべきは、厳密には100パーセント「同じ」はありえず、差異を捨象することによってその「同じ」は仮止めされているに過ぎない。ということだ。(万人が暑いといって、その暑さのエッセンスは皆が皆同一であるという保証はどこにもない・・・「果たしてどのような暑さだろうか?はて?」という問いがあらかじめ奪われているだけだ)。





からして、「同一性の確保」とは徹頭徹尾「仮象」なのであり、スカイツリーを知覚した者同士が、ほんとうは個別に微妙にちがうポイントを見ているはずなのにそれ以上のことを問題としないことに似ている。「スカイツリーを見た」という事実以上の事実を問題としてはならない、これが、シンクロ知覚のミクロ政治力学なのだ。




なのだ、と断定したが、断定したからといって、何かが変わるとは思えない。(スカイツリーはひとつだが、その見え方は多数あるはず。にもかかわらずスカイツリーの見え方は各人各様、同一的になる。なので、スカイツリーは特注の一点ものでありながら、すでにして複製されている、というパラドックスを孕んでいる。これ重要。)




「くそ!かぶってしまった!」も「やーん、かぶっててうれしいわー」もシンクロに対する反応であって、個別の視覚的シンクロ物に対しての反応ではないのだ。これさえわかっていればいい。これさえわかっていないものは、同一性の政治に巻き込まれつづけるしかない。オレの身体はオレのもの。あんたの身体はあんたのもの、取りかえがきかない。これがすべての出発点であり、ゴールである。売った体は奪い返せ。







「月とリンゴとつきまつげ」。ソーシャルなネットワークのシステムに則って、ソーシャルなネットワークのシステム外にいる人をひとり誘って、見に行った。作家の長峰さんに関してはあまり多くのことを知らないが「わっかるわー、それ」ということを言いたくなるような数少ない人だ。完璧なホワイトキューブ内・・・月、リンゴ、つきまつげ(つけまつげ)となると、「曲線の饗宴」だが、それをひきたてる「直線の乱痴気騒ぎ」が周到に準備されていた。およそ100個くらいランダムに壁にとりつけられた秒針オンリーの白丸壁掛け時計、そのホワイトアウティングな狂い咲き・・直線的な拍「カチッカチッ」が一斉に動いているのだが、とっても面白かったのは、パッと瞬間的に視線を送ると、一瞬止まって見える秒針が必ず発生するということにある。(←これちょっと言葉で伝えるのむつかしなー)。ここに決定的な「ズラし方」「空白の生産の仕方」の仕組みがあって、(エッシャー的な錯視でもないが)、「あー、止まってないわー動いてるわー」となるとき、ややうろたえる感があり、それは「時間の外側がかならずある」という観念を増幅させもした。(前回の横浜トリエンナーレで諸映画における時計のシーンだけをカットアップ&リミックスしたクリスチャン・マークレーの作品を見て、共通視点があるようにも思えた)





18世紀のフランスの宮廷社会では、肌の白さを競い合うために、女性たちのあいだでつけぼくろが流行した。21世紀の日本では、目のぱちくり具合を競い合うために、若い女性たちの間でつけまつげが流行した。しかし、この個展内で見られたすべてのつけまつげはつけまつげそれ自体に終始し、ついに目が開けられるような事態は展開されなかった。





時計あるいは時間というモチーフも、眼球というモチーフも、かのサルバドール・ダリルイス・ブニュエルマン・レイなどを筆頭にシュルレアリストたちが好んでいたことはよく知られている(おお、眼球譚バタイユ)し、都市文明の爆発的展開期としての1920年代というのは、ひとつのメルクマールだが、2013年には、時間が砂漠で溶解することはなく、しかし、拍節構造の外に出ようとし、そして、大きな眼球がこちらを見ることもなくなり、ついにつけまつげが固有の身体を離れて零度のオブジェとなった。ここは銀座なのだ。