パッヘルベルのカノン同盟


パッヘルベルのカノン同盟





「気づき」からのつづき。・・・さて、今回は楽曲面から考察してみよう。ちなみに聴いたのはシングルヒットのみである。「RIVER」や「フライング・ゲット」は別として、とくに印象づけられるのは「会いたかった」「ヘビー・ローテーション」「GIVE ME FIVE」がメジャーコードのセリーを採用していて、なんとなく「よく似た曲だ」ということだった。




ポップスを聴いていると、「よく似ている」ということがしばしばあり、それ自体はなにも珍しいことではない。しかしながら、今回は1週間少し、短期間にまとめて聴いたということもあって、メジャーコードのセリー採用にものすごく過剰なもの(しつこすぎる、粘着質、などと形容できるだろう)を感じ、あっさりと看過できない、という事態にまで発展した。(でなければこんな文章を書いていないだろう)。




なぜか?その「過剰なもの」から想起したのは、よく知られたメロディー、パッヘルベルの「カノン」(1680年頃、原題は「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ短調」)のコード進行であり、彼女たちのヒット曲はほとんど同一のもの、ないし「カノン」のアナロジーとして語りうる、ということに原因がある。





少し音楽に詳しい人、とくに音楽消費者ではなく、実際に楽器を少なからずたしなんでいて、最低限のコード進行の基礎知識のある人ならば、AKB48のそれらの曲が「パッヘルベルのカノン」の引用、パロディであることくらいは、即座に見抜くことができるだろう。




ここで問題となっているのは、「C→G→Am→Em→F→C→F→G7」の展開である。(すべてが最後にG7を採用してペンタトニックでG7→Cと循環しているわけではない)





具体的に考察してみよう。まず酷似しているフレーズを一応列挙しておこう。まず「ヘビー ローテーション」のサビのパート「I love you、I need you I want you・・・」、以下のくだりである。このパートに酷似しているものとして「会いたかった」のヴァースのパート「自転車漕ぎながら、ペダル・・・」以下があげられる。「会いたかった」においては、まず上記の「パッヘルベルのカノン進行」とまったく同一である。そして「GIVE ME FIVE」においては、前奏、ヴァース、サビと、もっとも露骨にパッヘルベルのカノン進行を採用している。(ちなみに冒頭のマイナーコードが、そのすべてを引き立たたせている・・ザ・ビートルズの「A HARD DAYS NIGHT」の冒頭部<ジャーン!>のような効果だ・・・さすがにプロダクションも同じことのやりすぎで、少し焦ってマイナーキーを最初にもってきてマンネリを誤魔化そうとしたのだろう)。




前述したように、少し楽器をたしなんでいる人ならば、この程度のことは中学生でも理解できる。AKB48のヒットチューンとは、同一のコード進行、同一の曲のイメージを保持したままで、いかにアレンジするか?というアレンジメントの複数性、多様性に賭けつづけてきたのである。それ自体は是も非もない。「それがポップスのやり方なのだ」というしかない。





しかしながら、この現象自体がとっくのステレオタイプなのだ、ということも付記しておかねばならない。1969年のビートルズの「レット・イット・ビー」。1963年のボブ・ディランの「くよくよするなよ」などが洋楽のなかでも、とくにパッヘルベルのカノン進行を模したものとしては有名だろう。邦楽でもっともよく知られているのは山下達郎の「クリスマス・イヴ」であり、この曲の間奏部においては、パッヘルベルのカノンのピッチを上げたものが、そのまま引用されている。この他にも先日記したマイ・リトル・ラバーの「ハロー・アゲイン」などが分かりやすい例としてあげられるだろう。





最後に、数日前にヴォーカルスタイルのことで「トランスジェンダー」について触れたが、女性が主語「あたし、わたし」を放棄して、「僕」を採用することはもうやめておいたほうがいいだろう。(今、思い出したが、渡辺美里という鼻声の人もよく「僕」を採用していたな・・・こういうことは徹頭徹尾、「歴史的」なのだ・・その「歴史」にバリアを張り巡らせるための「現在/気分としての現在」こそが消費の対象となっている)。




おそらくAKB48の少女たちよりも、おそらく100倍くらいは才能のあるaiko(まず、彼女自身が歌手である以前に作曲家であるということは特筆すべきだろう)においては、この「トランスジェンダー・・・中性化戦略」にひどく自覚的であり、彼女が存在論的に(僕と君ではなく)「アタシ」と「アナタ」の関係に固執して(というよりも囚われて)、歌い続けていることに関しては、これからも注視する価値はあるだろう。(あと、彼女の歌詞においては、「空間の扱い方」がひどく映画的なのだ。インサートショット、長廻し、フラッシュバックなどの使い方がとても上手い。「花火」などはフェリー二が聴いたら大喜びしそうな歌詞だ。)




もうひとつ、ドメスティックには、現行日本の資本主義のターゲットはまずは老人と子供にある、ということも指摘しておいたほうがいいのかもしれない。老人から子供へのキャッシュフローが、中間層の消費を決定づけているという構図がある。老人と子供を対概念として流通させてしまったのはジャン・ジャック・ルソー(決定的なのは、教育書『エミール』1762)だが、個人的に杞憂(!)なのは、「少女性」の消費に対して「少年性」の消費がますます希薄になってきたことにある。正確にいえば<主語「僕」>は、少年のなかの「僕」をまずは<主体として>開発し、その次に利用し、そして、最後には搾取するのである。(もちろん、エクスプロイット exploit 開発―利用―搾取のことを言っている)。かくして少年性は希薄になってゆき、男性が女性化するベースを用意する。





少年よ、革命を志向せよ、革命を忘れるな。キャラ萌えしている東浩紀など、決して読むな。時間の無駄だ、金の無駄だ。小川伸介の映画を見よ。高橋悠治を聴け。ゴダールを見よ。リメンバー、ポール・ニザン。リメンバー、パールハーバー。俺たちにはアルコールが必要だ。アルコールをよこせ。(ギイ・ドゥボール)。




まずはこの少年のもつ革命的潜勢力を「革命的潜勢力奪取機械」としての少女たち(これこそが大人に使われる悲愴にして皮相なロボットだ。)に奪わせてしまおうとする搾取層(カラクリ)がいる。




鋭い少年は、すでにこのことを見抜いているだろう。(お前AKBなんて聴いてんの?ダッセー。カエラちゃんの方がマシだぜ!)一方、鈍感な少年はリアルな少女性にアプローチできず、擬似少女(フェム・シュミラクラ)としてのAKB48に、不覚にも操作された、そのわだかまった少年性(オム・イマジネル)を代弁してもらうしかないだろう。全般的にはこの構図を「カラクリ」たちがカラクッっているだけだろう。




(AKB48のファンがファンでなくなる瞬間、それはこの少年/少女のミラーイメージの中でもがいている、その内部から鏡を叩き割った、ということになるだろう。ガッシャーン!バリバリ。)さて、2時21分になった。外はいい天気だ。わたしはもう、一生涯、二度とAKB48を聴くことはないだろう。これからマイルスの『スプリングヴィル』を聴きながら、みたらし団子を食べるだろう。(了)




(このテクストを書くにあたって、イワシタ氏の御教示を得ました。記して感謝します。また、パッヘルベルのカノン進行が採用されている楽曲になぜか「応援」というメッセージ内容が多い、というイシカワ氏の指摘もありました。)