おきぬけミュージック




朝 おきぬけに頭の中で鳴っている音楽 (おきぬけミュージック)が
なぜ その曲や歌なのかが いくらかんがえてもわからない
という場合がある

寝る前にベートーベンの弦楽四重奏曲第9番を聞いていても
おきぬけミュージックが それというわけではなく
第9番のつづきの第10番というわけではない

まったく関係のない まったく脈絡のよめない 曲だったりする
(小学校のときの流行歌 渚のハイカラ人形 だったりする
昨日はCUREというニューウェーヴバンドの曲だった)

どうして?! なぜ渚のハイカラ人形が??! という その非連続性や断絶に とくべつな意味を見出したり、見出さなかったりするのは
各自の自由であろう

夜寝て 朝起きる そのあいだに夢を見たり見なかったりしていて
「あー充実した夢だった」と、やや覚えている夢もあれば すぐに忘れる夢もある
(どちらかといえば すぐに忘れるタイプ)

寝ているときの 影響力なのか どういった干渉なのか 
どういうしくみで おきぬけミュージックの選曲がなされるのだろうか 
あたまのなかにi-TUNESみたいなものがあって 寝ているあいだに ずっとずっと
ぼやーんとシャッフルされていて 寝起きに たまたま このタイミングでこれだったのでは ということは 想像できるが 
ようするにi-TUNESにもはいっていなさそうな曲が鳴ったりするのである
ここも不思議なのだ

起床後の 40分から60分は おきぬけミュージックに
なるべく注意深くなってみるが そのうちにきれいさっぱり 忘れる
日中の秩序に適合しているのである
(が、次の日に急に思い出したりもする)

1日が始まるオープニング曲 というほどおおげさにはかんがえたくないが
1日のゆくえをどくとくのやり方で占っているような気がしないでもない

ところで コンピュータ用語の話だが
記憶(MOMORY)へアクセスする方法は
シーケンシャルアクセスメモリー
ランダムアクセスメモリーの 2種類あるということになっている

前者は 映画のフィルム カセットテープ ヴィデオテープなどの記憶媒体に代表される

後者は CDやハードディスク SDカードや MEMORYSTICKに代表される

というふうに わかてかんがえてみると
脳内の諸記憶からひっこぬかれる(出力される)おきぬけミュージックが 
どちらのタイプのアクセスによるものかというと 後者のような気がする

前者は 連続性を前提に作動するもので 後者は 連続性を前提としているかもしれないが非連続性でもいける(飛躍−スキップできる)という利便性がある

おきぬけミュージックは 鳴っている音それ自体は 連続性から切断されている ようするに 非連続性が強調されているので ランダムアクセスによって出力されているようだ

だからといって それがすぐれているとか わるい という話ではない
連続性が確認できないというところにたいして 注意深くなろうとしているだけなのだ


これと関係なさそうで じつは おおいに関係ありそうなことをいうと


俗に言う「おまえがいっていることはわからない」や「説明不足」は
一般的には
「意味の連続性を確認したいからその意味の非連続性をどうにかしてくれないか」
ということで
いらいらしている人は「いっていることにはかならずや意味がある」ということを前提としている

だから
「非連続性を強調して、非意味性を強調したがっているおれをまったくわかっていないおまえはバカだ」とか「おまえには想像力がない」といいかえすこともできるのである

snsやブログをやっているにもかかわらず
なかなか書かない書けないという人がたくさんいるが
それは言語表現に意味をもとめすぎているのではないだろうか 
単語を羅列するだけでも 
それはそれで読み手の想像力を触発させてよいはずなのに)

言語表現のリニアリティを求めることによって 人間は合理的に生きていくことができ
それが文明的だ 文化的だ と思われている時代がずっとずっとつづいていきた 近代信仰のベースとしてあったのはそういうものだったのだろう 


また
人間の脳をコンピュータのメタファーで語るということは さんざん流行したが
そう語る脳自体がテクノロジーによってどんどんと影響されてゆく という過程が
つづいているのではないだろうか

この過程でも まだまだ意味の連続性を持たせようとする制度が発動する

Dを説明するのに
ABCそしてDという説明のしかたが シーケンシャルで正しいしわかりやすいのだが
あるひとは BAC→Dという説明をして、それでわかりにくといわれることがあったとしよう

結論はDで同じなのだが 後者のランダムアクセス性を排除する方向にあるのが シーケンシャルな理性であり 


(時間がないのでおわり)