物の怪姫→物自体姫


カントの概念的整理。「現象、仮象、物自体」。この三つ組があるとして、まずわかりやすいのは「現象」だろう。なぜなら現象はうつつ(現)の像として簡単に把持され、それ自体において完結するからだ。(出来事は時間を生むが、現象は時間を生まない。)ゆえに現象それ自体には外部がない。歩行者天国(もちろん、反対語は歩行者地獄だ)を歩いていて、突如の音響や場面にハッとなる。それはXが単一的に現象を満たしているからであり、ゆえに現象は空間支配的になり、その場合空間を何ものかで満たすことに空間自体が満足している、と言える。現象は自足的であり、それを現象だ、と言い切れる一般性のもとで確認される。(エルニーニョ現象、など、「固有名」+現象という語彙化に見られるように、即時的に記号化できるのも特徴)ゆえに、現象が現象として持ちこたえられなくなったときに、人々は前−現象を生きるほかない。「前−現象」とは、ほとんどの場合「前−記号化現象」である。





つぎにわかりやすいのは「物自体」か。「物自体」が要求するのは、主体であり、主観である。現象は主体、主観、身体の内部に「主」(アルジ)を認めるかどうかの地平を要求しないが、物自体は主体、とくに主体の内部に入り組んでいる他者性を要求する。物自体は自然的身体が見出すのではなく、「知覚の突端」の繰り返しとしての「経験の系列」が見出す。(カントは『純粋理性批判』において、「経験の系列」というタームを繰り返し使用している)。人々はたくさんのセリー(系列)を持つことができる。朝シャンのセリー、お味噌汁のセリーから、就寝前ストレッチのセリー、風呂上りのコーヒーゼリーのセリー、夢見セリーまで。(ここでふと、思うが、夢を見ることとは純粋な想像界に属していない、だとしても、そもそも朝シャンのような純粋経験に属するのだろうか。)





カントが述べるように、「物自体」は認識可能であっても、経験不可能である。だが、この断言命題はいうまでもなく「経験を可能にする潜在的なもの」としての位相決定に起因する。(物自体の仕事とは、各人が各人なりの経験を真の経験としてあらしめるモーターとして律することだ)。カント以降、物と物自体は分裂してしまった。だが、カントの「物自体」の設定は神(超越性)への超越論的懐疑であり、反宗教であり、反信仰であり、反−汎神論である。はたして神は何を経験したか?神はフルーチェを欲したか。小便ががまんできないからといって、立ちションをしてしまったのか?(すっとばして言うが)かくして実名イエス・キリストは、ヨーロッパ内部において「経験可能なもの」として見なされた。「物自体」の発明は、神(実名イエス・キリスト)の実在論的再発明として地上に投下された。





現象はダイレクティヴ。が、物自体はそうではない。物自体を発見するには、いくつもの屈曲平面(ねじれ、おりまげ、吸収、再吸収を含んだ)を通過せねばならない。あくまでストレートではない。そして物自体の偉大なところは、それを察知能力、感性、知性、知性に賭ける情動性において各人各様に見出させることにある。



例えば「自由であれ、」という命令。これは同時に「不自由であれ、」という言明(法)を含んだ上で命令される。あからさまな矛盾=逆理だが、それは物自体が機能したからである。自由も不自由も経験してこそ、リアリティが追認できる。だが、物自体は経験不可能である。物自体が経験不可能性を経験している、と言ってもよい。