三里塚ロケハン







三里塚ロケハン


▼「いあ〜三里塚、すごかったな。感無量って感じだ。」
●「感じたことが無量あるってことね。そりゃ、すごいわ。しかし何がすごかったの?」
▼「せっかくだから時系列に沿って喋らせて欲しいな。」
●「いいよ、そもそも一人で行ったの?」
▼「シナハンとロケハンをかねて、今撮りつつある映画の主演男優と行こうかってことになってたんだけど、彼がちょっとダウンしちゃって、一人で行った。まあ一人で行ったからインパクトがありすぎたんだけど、それはそれでよかったな。」
●「三里塚なんて行った人少ないよね、多分。」
▼「そうだろな。ま、だからこそ、この場を借りて現在の三里塚がいかなるところなのかをかんたんにレポートしてみたい。」
●「まず東京駅からどのくらいかかるの?」
▼「中央線、総武線成田線経由で成田駅まで2時間。東京駅から片道は1300円くらいかな。あとバスに乗って30分、こちらは片道500円と割高。よって交通費は往復3600円。成田エクスプレス使うともっと速く行けるんだけど、片道3000円と高い。」
●「まあ、千葉の田舎風情を楽しみつつ、みたいな。」
▼「そうね、都内の近郊って畑はちらほらあるんだけどそれに比べて水田がほとんど見当たらないんだよな。千葉って逆で畑より水田が目立つ。」
●「千葉は初めて?」
▼「えーっと、京葉線沿い、つまり外房の海沿いは4回くらい行ってるけど内陸方面は初めてかな。昔ウィリアム・ギブソンが書いた『ニューロマンサー』っていうSF、これは80年代のポストモダン期に流行したSF小説だけど、舞台がチバシティから始まっていて、それで千葉ってSFっぽいところなのかな、と思ってたんだけど、内陸はやっぱり田舎だな。」
●「へえ、そうなんだ。落花生とか名産らしいけど、お菓子のミルフィーユってフランス語を訳すと千枚の葉っぱになって、だから千葉の隠れた名産ということにしているんだって。軽いノリだわね。」
▼「プロレスラーのミルマスカラスは千の仮面。ミルは1000でドスは100だっけ。千枚漬けはどういうんだろう?」
●「それでどういうところだったのよ。成田三里塚って。」
▼「まずJR成田駅の東口前はカビ臭く裏ぶれていて西口前は近年開発されたのかな、ジェントリフィケーション丸出しのフラットな感じだった。この落差が極端だったな。で、三里塚行きのバスは西口から出ていて1時間に2本、バスが走るまで乗る人少なすぎてエアコンつけない、みたいな。三里塚までほんの25分くらいだったんだけど500円もとられたな。」
●「まあ田舎ってそんな感じよ、どこでも。」
▼「そうなんかね。西口出て少し歩いたところにマクドナルドがあるんだけど、マクドとJRがやっているコンビニのnewdaysの中だけ若者がうじゃうじゃいて外は閑散としている。へんな光景だったな。」
●「たしか交通安全祈願で有名な成田不動尊とかあるんじゃなかった?」
▼「あー、バスから見えたな。でも人ッ子ひとりいなかったよ。」
●「そうなんだ。観光名所っぽいところってないに等しい。」
▼「成田空港自体が観光名所になってるんだよ。」
●「そうか、それでどういうルートで散策してたのよ。」
▼「実のところ、三里塚に行くまえに成田図書館の位置だけ事前に確認していて、東口からバス乗って行った。そっちは20分くらい乗って150円。わりと大きな図書館で司書の方に聞いたら三里塚という特設されたコーナーはなかったにせよ、空港というコーナーがあってそこで3、4冊パラパラめくっていた。ちなみに三里塚闘争(成田空港建設反対運動)を執拗に撮り続けたドキュメンタリー映画作家の小川紳介の本は2冊しか置いていなかったな。で、昭和57年に出た小関与四朗という人が撮った写真を編集した『成田国際空港』っていう分厚い大型の写真集があるんだけど、これに戸村一作とともに三里塚闘争のリーダーでもあった大木よねの棺が人力で運ばれている写真があって、ああ、やっぱり大木よねは逝去していたんだって確認できたんだ。しかも、驚くべきことに、その写真のキャプションには<よねの遺言通り第2期工事B滑走路建設予定地の下に土葬されることになった>とあって、驚愕したな。」
●「へえ、じゃあ滑走路の下に大木よねの遺骨っていうか遺体があるってことなのの?」
▼「第2期工事が今はどうなっているのか知らないんだけど。まあ、なんというか、半生を成田空港建設の反対運動に費やしつつも敗北し、しかし、死後なおもって空港の滑走路の下で反対の声をあげつづけているっていうことになるのかな。これはすごいことだと思わない?」
●「そんな人いないわよ。」
▼「そう、それでそういう事実を知って興奮さめやらぬ状態で早速駅前にもどって裏ぶれた西口からバスにゆられて三里塚、ないし、空港周辺に向かったんだ」
●「詳細地図は持ってたの?」
▼「図書館の人がよくしてくれて、成田市の地図をいただいたんだ。この地図を見ていたら、三里塚のあたりの施設名はショッキングピンクでごちゃごちゃ印字されていてああ、けっこうにぎやかなところなんだなって感じたんだけど、ぜんぜんスカスカなところだった。」
●「三里塚っていうバス停がある?」
▼「そう、三里塚駅っていうバス停があるんだけど、そのひとつ前で降りて歩いてみた。で、三里塚記念公園っていう多分、今では珍しい(サルトルがそれを見て嘔吐したという)マロニエの木が林立しているやけにバカでかい公園があって、ここも人どころか猫一匹見あたらない。で、公園の周囲を見渡すと見事に誰もいなくて、車とトラックと飛行機しか通っていない。」
●「飛行機は道通るんじゃなくて飛ぶんだよ。」
▼「そうそう、断続的にやってくるゴオオという耳をつんざくもの凄い音で、よりいっそう不安と孤立感が深まる。ヒェ〜っていう感じだ。」
●「はあ、そんなところどのくらい歩いていたの?」
▼「そうね、2時間くらい。まあ、三里塚に限らず、地方の国道沿いとかやたらに閑散として殺伐としてるじゃないですか。潰れたパチンコ店とか、スナックとか、そのまま何年も放置してあるようなね、もうわれわれは完全に終わりましたっていうアッピールをずっとやっているような。」
●「つまり視覚的には似たようなもんだけど、飛行機の轟音が・・・」
▼「そうなんだよ。後はやはり空気の汚さとかね。たまらんよ。」
●「ずっと国道沿いを歩いていたんだね。」
▼「そう、あるのかないのかわからないけど、なんとか大木よねが埋まっているB滑走路を見て帰りたいな、という思いが強まって空港脇までたどりついたんだ。で、敷地を区切る塀の長いこと!あんなに長い塀を肉眼で見たのはマジ初めてだな。ほんと遠近法の無限遠点まで壁つづいてたもんな。」
●「背の高い防風樹があったんじゃない?」
▼「そうそう、大田区羽田空港は防風樹植えてなくて、京浜急行天空橋駅で降りて少し歩けば滑走路丸見えなんだけど、成田は隠してるなって思ったな。まあ、一般市民で普段こんなところ歩く馬鹿はいないんじゃないか。暇そうにしている警備員がいたけど、危篤な目で見られたよ。」
●「監視カメラは?」
▼「カメラはけっこう取り付けてあったね。昔話だけど、兵庫の伊丹空港の脇で着陸する飛行機を真下から見れるスポットがあってそこでヒッチコックの『北北西に進路をとれ』ばりに飛行機を撮影した記憶があるけど、そういう真下にいける道は完全に封鎖されていて、上部に監視カメラが数台並んでいた。あと、笑えるのはなんとかケータリングっていう機内食をつくっている工場らしき建物があって二回の窓の置くにベルトコンベアが見えているのよ。その工場の出口からパートのおばさんたちがバッと出てきて、スクーターでチャっと帰る、みたいな光景に一瞬でくわしてなぜかほっとしたな。で、ぐるっと回って反対方向まで、歩こうかな、と思ったけど、精根尽きて、なんだかへんな森の方へフラフラ入ったのよ。森の入り口に警官が二人たっていて、なんだろうか、と地図で確認したら空港警察。おそらくは入国管理法違反者とか麻薬所持者をいったんそこで預かって取り調べするための施設なんだろうと思うよ、高い塀の上、鉄条網はってあったし。」
●「なんだかすごいところね。」
▼「そう、飲み物の自販機もないし、轟音で頭へんになってくるし、足は棒だし」
●「それで、森でどうしたの?」
▼「そんな状態でも、歩を進めていたらある看板が突如出てきて」
●「看板?」
▼「そう、三里塚住宅。ぱっと見は、都内にあったら建築スノッブが住みたがるようなアドルフ・ロース風集合住宅群。それが、突如しらじらとした感じで出現したんだ。あれはシュールだったな。」
●「へえ、あっ、もしかして空港建設時に立ち退きにあった人のために作られたものじゃないかしら?」
▼「おそらくは。しかし、近づいてみるとその集合住宅も古びてて、しかもほとんど誰も住んでいないと言っていいほど、ちらほらとしかベランダに人跡がない。敷地もやけにだだっぴろくて人一人歩いていないし、樹木の影がコンクリートにちらちらしているだけ。そこで、再び、えも言われぬ不安に苛まされたな。いったいここはどこなんだっていう。オレは一体全体何を探してるんやろか?っていう。それでも自販機がポツンとひとつだけあって、そこでやっと液体にありつけたな。」
●「なにか、こう、都心部で目的もなしにさまよっている時に味わう浮遊感とうらはらの覚醒感が一定時間持続していて、ふと気がつくとリアリティの強い現実の輪郭の前で呆然と突っ立っているっていう感じかな。」
▼「そうね、そんな覚醒感とか浮遊感とかっていうポジティヴな感じじゃなくて、どうしようもない悪循環の中で一瞬明るい白々とした隙間が見え隠れしてって感じだよ。積極的に不安になりたかったら空港周辺を歩けばいいっていうことだ。
ジェットの馬鹿でかさを直接目で見たり、轟音をダイレクトに聞くことによって、カタルシスも味わえるしね。ライブハウスの爆音なんてまったく比じゃないよ。それに、カタルシスも空港内部で知覚するのとはちょっと違った味わいがあるような気がするな。ともかく精神衛生に非常にいいって思ったのも確かだな。」
●「とにかく情報の過剰供給の中でまったく誰にも注目されない三里塚へ行くってこと自体が面白い。」
▼「話変わるけど建築家や建築家予備軍が書いた都市論としての東京論ってほんとにつまらなくて、タイトル見ただけでもう読まないんだけど、ようするに東京はカオスだから素晴らしいとか、そういうことを言い過ぎてるような気がしてならない。ぼくは東京ロマン派って茶化しているけど、東京生まれの人って関西のうるさくてややこしいのやら東北の大根くさいのやら、まあ田舎もんに浸食されつづけている歴史を内面化するしかなくてほんといやになっているとは思うけど、地元の人は純血東京人としてのアイデンティティを必死で探しているそんな些少な歴史も反復しているような気がするのね。」
●「YMOのリニュアールバンドが曲提供している『TOKYO』という国際合作映画もそんな焦燥があらわれているのかもしれないね。」
▼「そうね、ヴェンダースが『東京画』を撮ったのは87年くらいかな。ああいうちょっと小粋な東京映画を西欧人に撮っていただくと東京ロマン派は諸手を上げて喜ぶ。」
●「ちょっと前、メトロの副都心線も開通して、またまた地下網が複雑になったね。」
▼「メトロも建前は導線確保による混雑の緩和なんだどうけど、何だろうね。あんなにバカスカ地下掘って大丈夫なのかね。関東ローム層ってもともと湿地からできあがっていて実はユルユルなんだけど。」
●「太平洋戦争みたいな近代戦はもう起こらないだろうけど、仮に起こったとしたらメトロの地下空間は塹壕がわりになるかも。」
▼「そうかもね、しかし、ほんとに塹壕がわりになる場所は一般人には知らされていないと思うよ。半蔵門線永田町駅から皇居まで続いている知られざる地下道があるっていう噂があるけど、そんなシークレット地下道はけっこうあるかもね。ふだん使っている所は防空壕として使われるかもしれないけど、一撃で爆破されるんじゃないか。」
●「まあしかし、東京メトロのネットワークってコンピュータネットワークを模倣している感もあって、脱中心性システムによって、ある箇所でトラブルがあっても、それこそ、一撃である場所を爆破されても、流動的分散的に稼働できるような構造があるんだ、とは言われているけど。」
▼「そうね、とにかく特に建築プロパー、まあこれから東京論を書く人は、B滑走路の下に眠っている大木よねに呪われるのを覚悟で、是非とも成田三里塚へ行って欲しいな。ヴィリリオの言う情報化爆弾とデフレーションが続くなかで、何が安定をもたらすかっていうと最終的には認識だと思うよ。」
●「しかし、三里塚を撮るってのも、反時代的でいいわね。」
▼「もちろん、三里塚だけを主題化したものじゃなくて、フィクションの一部において機能させるということやけどね。」
●「東京という場所性についてのこだわりからそうなったのかしら?」
▼「京都からこっち出てきてすぐに書いた柳田国男の『山の人生』の1パッセージから想起/敷衍したシナリオがあって、短編を撮りながらその改稿をずっとやってたんだけど、不可解な現実っていうものにぶちあたった時に起こる孤立感というかポッと浮いていまう、またははじきだされてしまうような身体感覚っていうのかな、その現実の強度をまず問題としているところがあって、物語らしきものをつくったんだよな。京都大原の山奥で樵(きこり)やってる人の話とか聞きに行って、それはそれで有意義だった。」
●「それで、その脚本はどうなったの?」
▼「ちょっとまだ撮れないな、と判断した。『山の人生』は東北の山の暮らしのルポルタージュで、東北のほんとうの奥地って行ったことないからまあ一度は足を踏み入れてからにしようかなと思ってるんだよ。で、80年代初頭までは谷川雁とか浅川マキとか寺山修司とか、それこそ石川さゆり津軽海峡冬景色まで、東北性というのがけっこう東京の文化的磁場に働いていたと思うんだけど、なぜか80年代後半あたりからマスメディアの意識が南に働いたんだと思うんだよな。で、今世紀になってからもテレビ業界は明るくてさんさんとしてる沖縄に行ってグルメとか、やっぱり安室奈美恵やスピード以降の沖縄経由のJポップ文化を継承していこうか、南のエネルギーをどんどん吸収していったと思うんだよな。90年代初頭だったか、ボアダムスのアルバムに『恐山のストゥージズ狂』ってのがあったけど、70年代の東北性は完全に切断されて浮遊しているっていう感じなのかな。」
●「北海道は洞爺湖サミットで最近注目されたと言えば注目された。」
▼「北海道は実のところ近代的侵略の蓄積地であって、日本におけるアメリカというか歴史の浅さがあるから一見のっぺらぼうで牧歌的に見えるけどアイヌ人の差別問題とか未だにあるでしょ。有島武郎とか読めば、北海道のキツさがわかるよ。あと明治時代の話だけど、北海道の国道作りで京都の浄土真宗がスポンサーになってたらしい。京都の本願寺の敷地内に道路作りの労役に従事させられたアイヌ人を追悼する石碑があるって、昔、同世代の寺の坊さんが言ってたな。見たことないけど。」
●「しかし東京一極集中的マスメディアにおける全国的トータリゼーションが終わらない限り、現状はさして変わらないんじゃないかしら。」
▼「そうなんだ。トータリゼーションという発想自体フォーディズム以降のアメリカが作ったんだけど、日本は白痴的にアメリカに追従してきた。だから成田の片田舎にチェーンの(鎖でつながれた)マクドナルドがあって国産の登録商標物でもある力餅食堂がないとか、山奥に国産のサントリーの看板がなくて、コカコーラの看板があるとか、そういうアメリカの力を見せつけられてきたことになんの疑問ももたなくてもいいほど、当たり前の風景としてアメリカを消費してきたっていうのは疑いのない事実としてある。」

●「アメリカと日本じゃ国土面積じたい全然違うのに、トータリゼーションやチェーンという発想を盲目的にとりいれて、地域の経済的自立を抑圧してきたんだろうね。まあしかしテレビ離れも急速に進んでいるらしいけど、それはそれでいいことだと思うな。」

▼「映像文化がトータリゼーションに加担してきた歴史があって、コマーシャリズムと一体になって邁進しつつ国家に隷従してきた流れが終わりつつあって、you tubeとかpod castに代表される動画番組が瞬時にダウンロードできて高画質で自宅のプロジェクターに映して友達呼んで見るっていうのがスタイルとして確立されつつあるのかな。映像コンテンツという形態にシネマという理念が回収されると映像コンテンツが映画のメタレベルに立ってしまう。しかし、それはそれで目くじら立てることでもなくて、映画が徹底的に分裂を生きることになればいいんじゃないか」

●「しかし、映画制作技術に関しては、環境的には整備されていてまあ誰でも映画っぽいものが撮れるようになった。8mmや16mm撮ってた時代ってやっぱり大変だったろうしね。」

▼「そうだね、だけどフォーマットが変わっても、何をどう撮るかっていう問題はありつづけるし、光は常に映像にとって問いでありつづける。」









■ ピエール・カバンヌによるマルセル・デュシャンへのインタビューの断片に動機づけられたソフトな会話



●「コンセプチュアルアートにありがちな、<誰かがそれを芸術だと言えば、それは芸術なのだ>っていうトートロジー(同語反復)って結局はそれを言ったのが誰なのかっていう問題に変換されるしかないし、「それを芸術って言ったのはいったいどこの誰じゃい?」っていう問いから「彼じゃい」ってなって「彼とは一体どこの馬の骨じゃい?」ってなって結局、人称性とその内実、またはその内実の代表機構しか問題にされなくなるっていう危険はあるって思うな。この人称化は作品を知覚する際の不安、その不安を解消するための知覚主体の<分裂>の縫合作用と裏腹になっている。」
▼「それはするどい意見だね。」
●「28才の時のデュシャンの話だけど、彼がニューヨークに着いて、最初に出会ったアレンズバーグっていう人がいるわけ。アレンズバーグはもともとイマジズムの詩なんかを作っていた人なんだけど、彼は暗号通信法なるものに凝っていて、ダンテの秘密を『神曲』の中に、シェイクスピアの秘密を彼の演劇の中に見いだせるって言うわけ、それでそういうことに一生を費やした人でもあるわけ。」
▼「なんか、ダ・ヴィンチ・コードみたいな話だな。」
●「デュシャンは彼にパトロネージされていたにもかかわらず、彼のことを馬鹿にしているんだけど、アレンズバーグの暗号通信法なるシステムなるものをちょこっとインタビューで言っているのよね。」
▼「ほう、どんな?」
●「テクストって視覚的に行と行間が発生するでしょ、その行間において行そのものにおいては語られなかったありとあらゆるものの暗示が見いだせるっていうのよ。その暗示をシステマティックに解析することができるってことね。」
▼「まあ、ひらたく言えば裏読み、とかそういうことになるのかな」
●「うーん、裏読みの裏読みになるのかな。例えばイマジズムのマニフェストエズラ・パウンドが書いたわけだけど、彼も象形文字の中に像と像の間における暗示っていうかモンタージュの隙間、不可能性としてのスリットに記号作用を見て取っていたわけでしょう?その理論で言うと、記号作用っていうのは、間隙においてはじめて意味が浮上する、ゆえに伝達可能なメディウムになるっていうことに理論的に依拠しているわけよね。」
▼「時間的に分析すると、文字の知覚は文字そのものの知覚を常に遅延させる、ゆえに意味として通じるっていうことかい?」
●「そう、サンス・ユニーク、唯一の意味の意味性がいったい何によって保証されているのかっていうと、ようは文字像の知覚の遅延。文字像は文字像としてイメージ化されないゆえに、文字として自律しはじめる。そういう瞬間を必ず通過している。」
▼「ようするにアレンズバーグっていう人は、行というまとまりの中で行間を暗示したかったんだから、それは文字像ではなくて、行という意味が支えているんじゃないか。」

●「そうね、アポリネールやレリス、あとダダイストの視覚詩とかそういう文字像の知覚遅延をなんとか瞬時に埋め合わせよう、というか時間軸を複雑化しようとしているのかもしれない。」
▼「なんの本だか忘れたけど、バロウズが面白いこと言ってて、サブヴォーカルレコーディングのシステムが開発され、一般化されると、真実と虚構の境目は完全になくなるだろうっていっているんだ。サブヴォーカル、つまり、副次的な声のことだけど、メインボーカルで話す、つまり物質としての音声を響かすことによって、話されなかった話がどうしても主体に回付ー沈殿してしまう、それがサブヴォーカルとして形成されるという現象があるとバロウズは指摘するわけね。それで、主体には常に暗黙の声っていう次元がかかずらわってくる。そこには声にならない声や音にならない音なんていうのも含まれていて、しかし、そういったノイジーなざわめきからふと、まとまった言葉ができあがることもあり、そのまとまりがメインボーカルとして外界に放たれる場合もある。そして、サブヴォーカル自体をことごとく国家の支配下おこうという仕掛けが、アルチュセールの言う国家のイデオロギー装置にほかならない。意識なんてのは徹頭徹尾国家に<あらかじめ>調整されているってニーチェも言っているけど、その操作性に打ち勝つためにはサブヴォーカルをレコーディングするシステムを開発するしかないって言っているように聞こえるんだ。」

●「一般的に<思う>、ないし<思う>ことの調整っていうことよね。<心の声>とか<心の叫び>とかとも言うね。自分が思う前に<国家=制度>に思われていることを自分がたまたま代弁してしまっていたっていう悲喜劇。聞いてて面白くない話、話してて面白くない話ってだいたいそういうもんなんだろね。サブヴォーカルを想像させない奥行きを欠いた声。」
▼「しかし、もう言われている、言い尽くされているってわかってても、言ってしまうってどういうことなんだろうか。」
●「ある作品があってそれを享受している立場があると思い込んで、あーだこーだと言うんだけど、ある作品の絶対性をつくる輪郭ってその作品そのもののの中にあるしかないにもかかわらず、作品にくだす評価やそれをめぐる言説って批評家が商売になりはじめた時から作品の作品性が絶対的なものではなく、ことごとく相対化される他ないっていう宿命がある。」
▼「作品と言葉の乖離ってずっと放置されっぱなしって言う感じがするな。おすぎがある映画作品について何か言ったとして、大衆はおすぎは映画全般について言っているって思いこんでしまう傾向があるにはある。マジョリティのオピニオンはそういう悲劇性を必ず伴ってしまう。」

●「サブヴォーカルの形成原理って、言いたくても言えないっていう社会的な強制力から沈潜してしまう声や、たまたまある人と喋っていて、言うタイミングがつかめなくって、そのうち忘れてしまったけど、あることがきっかけでまたまた思い出してしまったこととにおそらくは起因しているよね。ま、これは行き場のない声というか、音声としてはそもそもなかった声よね。それにしても、言い間違えるっていうのは言表行為にまざっている未分化なノイズをあえて肯定していることであり、ノイズであるがゆえに、それが映像に変換される潜在性が高くなる。マルクスが指摘していたことだけど、吃りっていうのは吃る瞬間に映像がある。頭の中の映像が言葉=文法に先行すると文法の<法>に亀裂がはいったり、単語発音のシラブルを無視して言い間違えたりする。このへんをツッこんで考えると、まず音声と映像は互いに独立して存在していないっていう仮説が必ず必要になってくるね。」

▼「そう、一方、「私は●●だと思う」って思うという述語を発声することによって、事後性のフィクション、「私は●●と思っていたんだ」っていう事実性が主体に再回付されることになり、嘘くさい、かつうさんくさい主体が形成される。それが自己の映像に着地させてしまうっていうか<イメージー自己の政治性>を実体として立ち上げてしまう。「思う」って言ってしまった!っていうあとの祭り状態なんだけど、たんにサブヴォーカルが一時的に機能しただけのこと。しかし、ここが重要なんだけど、なぜか<思ってもいなかったこと>が<思っていただけのこと>として内面化されてしまう。文法っていうのはこういう虚構を操作する時間差を導入せざるを得ない。この時間差がなければ法廷の弁論もありえないし、警察の尋問もありえないし、バイトも面接もありえない。」

●「パゾリーニの『カンタベリー物語』のなかでパゾリーニが老人に言わせている台詞であり、たぶんチョーサーの原著にも書かれてあることだろうけど「冗談の中に真実がある」っていうのがあるの。いかにもイタリア人らしい台詞なんだけど、言いたいことが100パーセントわかっていて言うという透明性こそ嘘くさい、逆に濁っているっていうふうにも聞こえるわけね。」

▼「だいたい冗談として言えることって0、5パーセントでも思うことがあって、それを急激に100パーセントにしてしまったっていう跳躍がある。その急さ加減が笑いー冗談をもたらすポテンシャルとして機能するんじゃないか。」

●「100パーセント言いたいことがわかっていても、ストレートに言ったらつまらない、とか照れくさい、とか、そういうこともあるんじゃないかな。恋文で好きな人に対して、「好きです」なんて言ってもつまらないし、あえて婉曲的な表現で伝えるとかっていう技術。」

▼「まあ、伝わればどっちでも良いんじゃないか。粋の理念のひとつとして、粋について語るのがもっともヤボなことだ、なんてよく言われるけど、婉曲的な表現=粋でもないと思うよ。ぼくなんか、若い子に「言葉ではちょっとうまく表現できないです」なんて言われると、「じゃあ、踊りで表現してくれ」なんてよく言い返す。なぜって踊ってくれたら、こいつは粋な奴だって思えるからなんだよ。誰も踊ってくれないけど。その場合は踊りがストレートな伝達手段になっているにもかかわらず、言語化できないのでまったく伝達できていないっていう言語のパラドックスの表現になる。でも何かが残るんだよ。」

●「まあ、なんだかよくわからないけど、サブヴォーカルを発見して、<それーes>を無意識と同等にあつかってしまったフロイトについてバロウズがなにか言ってたな。」

▼「たしか「初期のフロイトはいいが、意識と無意識をわけてしまったフロイトは間違っている。あいつは間違った方向に行ってしまった、」なんて批判しているんだな、これについてはどう思う?」

●「システム化する時に困るのはサブヴォーカルの多言語性なんじゃないかしら。それ以前に生理学的に言葉を分析する必要があると思うな。ジョイスマラルメがやったポリグロットな次元も重要だと思うけど、それよりかウンコきばる時に世界中の誰もがuunnmmnn、っていうか、なぜか<n>音に還元される声を発してしまう事象や母親のおっぱいを吸う赤ん坊の音声が<chuやzuru>を含んでいるにもかかわらず、必ず<u>に還元される普遍的な事象、生理学的かつ非意味論的な音声パターンをとりあえずリストアップしておく必要があると思うな。初期のフロイトはこういう音声の物理性/科学性を問題にしていたとは思うんだけど、どこかでその科学性を<無意識>というコンセプトにかかずらわす必要に迫られたんだろうね。」(『デュシャンの世界』ピエール・カバンヌ+マルセル・デュシャンエピステーメー叢書/朝日出版社






■8月16日

8月16日、大文字の送り火の日に帰郷した。母親から書物の整理を促され、捨てるものと郵送するものと分けていたら、大学の時に読んだ『ミカドと世紀末』(猪瀬直樹山口昌男の対談集 )が出てきて、非常になつかしくなり整理をほっぽり出して、読み耽ってしまった。こんなに面白い本だったのか、と感慨を持てるのはもちろんぼくが数年前東京に出てきたという理由があるからで、この書は東京の東京性(独自性)を整理するのに強力な輪郭をあたえてくれるし、最近辻井喬堤清二)という人に興味を持ち始めた(すぐに興味は消え失せるかもしれないが)のでこの本で触れられている土地の売買という観点から見た西武と皇室のきわどい関係や軽井沢と西武の関係など、細かい歴史の検証を追いながら読み進めていくうちに、はやく東京に帰りたい、と思いさえもした。

日本人は電車を作り、走らせる技術をイギリス人から学んだらしいが、滋賀の近江八幡の百姓だった堤康次郎が西武の創業者として成り上がってゆく、その牽引力に電車を敷いてある土地とある土地をつなげながらビジネスを展開していくという強固な欲望の持続があったのだ。少なくとも、今なおもって堤の欲望の恩恵下に享楽する東京住まいの人は少なからずいると言える。

そして『ミカドと世紀末』の他に、装丁の美しさに惹かれて買った『世紀末ビジョン』という、これまた堤清二の対談集を読んだ記憶がよみがえってきたのだが、書物を入れた段ボールの中からはついに出てこなかった。当時は「世紀末」という言葉に敏感だったのか、一定の価値づけをしていたのか。しかし、世紀が変わっても、よりいっそう世紀末なような気がしてならない。(9月7日)




























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