映画ノート 8



■ ランダル・クレイザー  『グリース』  その1
(なぜ、女の子はピンクで、男の子はブルーで「代理表象」されていたのか?誰がこんなこと決めたのだろう?少し考えてみたほうがいい)





1978年、僕が青いセーターをおそらくもっとも愛した頃、チビッコの小学4年生の頃だ。ある所で『グリース』のポスターを見かけたことがあった。当時は、ピアノ&エレクトーン教室(僕が習っていたのは吉田先生というちょっと厚化粧だけど、とてもエレガントな大人の女性だった)に通っていて、通り道の北区の商店街の一画にこの映画のポスターが貼付けてあったのを今でもぼんやりと覚えている。その商店街のもっとも賑やかな蝟集場所、十字路の脇の木目調の掲示版には、映画のポスターだけがずっと貼られていた。(多分、映画専用の掲示板だったのだろう)。僕がよく覚えているのはサモ・ハン・キンポー監督だったか『Mr、Boo』のいまで言うCG調のもイラストが描かれたもの、『JAWS』、あとは『フライング・ハイ』という捩じれていた飛行機がが描かれていたものだ。『グリース』のポスターがどんなものだったかは忘れたけど、「グリースという映画があるのだな、」ということはなぜか覚えていて、そして、ついに今日観ることになった。まずは、パッケージ掲載分のテキストをそのまま書いておこう。

「ダニーはライデル高の3年生。革ジャンにリーゼントでキメたツッパリ・グループのリーダーだが、夏休みに出会った可憐なお嬢様、サンディが忘れられない。そこへ偶然にもサンディが同じ高校に転校してくる・・・。「サタデー・ナイト・フィーバー」で世界のアイドルとなったジョン・トラボルタとポップス界のスーパー・スター、オリビア・ニュートン・ジョンの豪華な競演。50年当時のスター達が多数ゲスト出演する、アメリカ的楽しさ100%の青春ミュージカル!



このテキストで触れられている「アメリカ的楽しさ」の基底はいわゆる「ボーイ・ミーツ・ガール」のカップリング・コントロールであり、それは「視線の戯れ」とともにある。そして10代の若者がのめりこむ娯楽やスポーツは恋愛の幼年期を形成する格好の舞台装置でもある。




さて、『グリース』が制作された1978年は、60年代から続いていた(いわゆる)「ホットな政治の季節」が完全に終わりを遂げ、「ポストモダン」な状況が訪れる最初期だ、とざっくり言ってしまおう。この時期は恋愛の構築性(ゆっくりと時間をかけて恋愛を成就すること、つまり確実に彼女をモノにすること)が重視されなくなった、そんな時期にさしかかった季節だと言ってもよい。むしろ恋愛言語の一元性(くどくどしい口説き文句、回りくどい「ええと、○○さん、たしか、Bランチ、そうそう、海老フライの、えっと海老って英語でシュリンプって言うんですか、あっそうそう、それ、好きでしたよね、注文しますウ?」というような礼節風文句とともにある)をことごとく無化するような身体性とそのマクルーハン的な延長、つまり言語破壊的なバイクやスポーツ・カーという「速度」を体現させる「機械−マシン」を諸媒介に恋愛の享楽を拡張した季節だということになる。



映画における「諸−恋愛シーン」の表象において身体(分母)と機械(分子)の関係が完全に入れ替わった、といっていいのかもしれない。モーターの精度、ギアチェンジの正確さ、そしてドライヴ・ミュージックが、カップル同士の言葉のやりとりを、(つづく)





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