映画と絵画





それは習慣としてそう言われている以上に、そう言う所作において、それがなぜそう言われつづけるか、その原因や根拠、そして無意識に潜むイデオロギー的虚構をそれ自体がそれ自体をもって、どこかに隠したまま、それは、そう言われ続けているように思えてならないのだ。つまり、それ、とは

「絵を撮る」


という言い方であり、その言い方に見られる、リテラルには「映像を撮る」という実在論的悟性を「絵を撮る」と言い換える、この語法の滑稽さである。撮影現場の伝達効率を考慮に入れた、いっそう社会的な、それゆえにいっそう有価値なルーティン語の疲弊した姿(擦り切れた伝統)でもある。だが、映画と絵画はその発生原理としては大いなる差異を認めなければならないし、「絵を撮る」ことの無批判な受容は、それを使用する者が結語的にスクリーン映される対象があたかも絵の従兄弟であるかのような捉え方を意識的であれ、無意識的にであれ、「どこかで」しているのではないか?という懐疑の目を向けさせてくれないでもない。


女優「監督〜。イイ絵、撮ってくださいね☆」
監督「おう、イイ絵を撮るよ。」

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