超哲学者M君




13時頃固定電話がプルルルと鳴る。17時30分、下北沢で落ち合わせ、打ち合わせる。早稲田大学での映画上映の企画を持ち込んだのはM君だ。上映は11月になったということだが、当初は8月と知らされていたから3ヶ月時間に余裕ができた。エレクトリック・ジャズ・ピアノの流れる店で、半ば即興的に企画を二人で練り直す。M君と話すのは性愛と哲学についてが殆どだが、その哲学の中で20パーセントはアルチュセールの再生産理論についてであろう。そこで、帰り道に考えたことの備忘録。





アルチュセールから離れて言うが、「作品の再生産とは理論の構想、構築、実現と無関係ではない」。理論こそが再生産の諸条件を形成し、生産のヴェクトルをその時間に内在化させてくれる。ぼくの場合は構想を立てると同時にまず構想を裏打ちする理論をある程度作りあげなければそれはもう作品とは呼べない。しかし、この理を詰めるという諸前提は、作品づくりに関わる人と共有するべきかどうかまで決めていないのが実状だ。共有したからと言って、よりよい作品が出来上がるというものでもないからである。





作品の全体とはどこまでなのか。この問いに正確に答えることは論理的に不可能である。ゆえに、全体を目指しつつも全体を拒否することを作品それ自体が目指し始め、感性という足場の弱い(うつろいやすい)「理解」として、部分が全体を代表してしまうことになる。そして「解釈のパターン」が作動してしまう。「解釈のパターン」は一般性を強化するだけであり、系統樹の可視性を固着させてしまうだけである(枯れ木を枯れ木として見るのではなく、山の賑わいとして認められなければいけない)。





作品が部分的にしか感受されないとしても、部分に徹底的にロゴスが充填しているとすれば、それは部分の強さ(全体に回収されない部分の強さ)にとどまることができる。ぼくがずっと言い続けているのはこのことだろう。だからぼくは厳密な設計図を自身に向けて要求する。




設計図をつくるためには、素材とそれを使う道具があればよい。道具は技術を生み、技術はより完全な形を生む。これこそがもっとも本質的な意味におけるART(芸−術)である。ネジがあるからドライバーがいるということは誰もが気づくことだ。だが、より重要なのは設計図があるから素材が必要とされ、設計図の先に確定した<欲望−像の建築>」があり、その像の構築のためにネジが、ドライバーが必要とされる、この到来すべき形に賭けられた諸プロセスの接合部の強さ、揺ぎなさであろう。これを前提しなくては、共同作業などはどだい、ゆるゆるで緊張感を欠いた甘えた幻想に中和されてしまうのだ。1時37分、眠い。