「映画とモダニズム」についてのソフトな会話♪ その5

●「どう?あれからすすんだ?」


▼「ちょっと調子悪いかな。天気が不安定でやや風邪ぎみ。でも、小林秀雄の『映画批評について』っていうテキストを見つけたんだー。」


●「へえ、いつ書かれたものなの?」


▼「1939年3月『日本映画』って雑誌に掲載されたもの。ナチスポーランド侵攻寸前のあたりだな。」


●「へえ、そんなのあったんだ。小林秀雄って、音楽批評の人にここ数年批判されているわね。それにしてもあなたの今日の髪型、キダ・タローみたいよ。浪花のモーツァルト。」


▼「そうか?今日は7:3分けじゃなく、9:1分けしているしかなあ?」


●「小林秀雄が道頓堀を歩いてて突然モーツァルトが鳴りました、すごいすごいっていう話、本当はキダ・タローが仕組んだ罠なんじゃないかしら?テレコで流してたりして。ぷぷ。」


▼「そうだとしたら子供時代のキダ・タローだね。半ズボン似合いそう。」


●「それはそうと、その『映画批評について』について語ってちょうだいよ。」


▼「そうだね、モダニズムとどう関係があるのかはさておき、まあひとことで言えば、映画批評は文芸批評の真似事してたら安泰ですよねって話。」


●「へえ、そうなんだ。小林はそれを肯定しているの否定しているの?」


▼「批判しているっていいうか皮肉っているっていうか。多分津村秀夫あたりを攻撃しているんじゃないかな。」


●「津村秀夫って第二次大戦中、1942年7月に行われた「近代の超克会議」に出席していた映画論者じゃなかったけ。」


▼「そう。まあ、今じゃ全然忘れられているけど、ある種のオーソリティーだったんだろね、当時は。勁草書房から出ていた『映画美について』っていう津村の本があるんだけど、それがまったくくだらない。現在に照らし合わせると中条省平あたりのくだらなさに相当する。まあ印象批評どまりって感じ。」


●「中条省平っていまパリにいるんだってね。文学界って雑誌、2006年1月号に例のパリにおけるアルジェリア人の暴動事件のレポートしてたわよ。」


▼「ポリティカル!で、なんだっけ、その小林秀雄の映画批評についてだけどね。一言で言えば<活字=象徴作用>っていう図式と<映画=感覚作用>っていう図式とをちゃんと分けて考えろってことなんだよ。それをごっちゃにしてしまったところで、映画批評が文芸批評の擬態(モドキ)なるっていうね。批評っていうのは、<活字=象徴>を相手にする限りにおいてそれは文学である。だが映画そのものは視聴覚的な感覚の産物である。小林はセザンヌ論なんかも書いてるけど、映画は絵画とは違って絵画の平面性を括弧にいれざるを得ない<センセーション=感覚>の産物だって言い切っている。これは中井正一の映画論とも繋がってくる話だけど、空間的、時間的な形式から映画を認識せよってことだよ。誤読しちゃうとね。けど、小林は映画の原理論的な話をどこかで回避していて、まあそれはベルクソン論として書かれた『感想』に繋がっているのかもしれないけれど、あとは自分で考えてくださいと、廻りに委ねている部分がある。しかしそれこそ「ランボー論」とか「骨董論」とか問題にならないくらいの読まれるべきテキストなんだと思うんだよなー。」


●「へえ、しかし、原理論的映画論を回避するのは、それは仕方ないでしょ。文芸批評家なんだから。」


▼「ま、それはいいとして、ぼくがこのテクストを少なからずアクチュアルだと思うのは、映画批評家はまず技術家でなければならないという主張なんだよな。コトバ=観念だけを相手にしたところで、映画の内実がつかめるはずもなく、それはコトバを相手にしたコトバにしか過ぎない。批評家と名乗る人間が批評家の言説だけを気にしながら批評を書いた気になってしまう構図だよな。」


●「あ、それんなんだかありがちね。美術評論家で言えばサワラギノイとか、そんな感じがするわ。絵なんて描いたことなさそう。」


▼「あの人はもともと音楽系の人だったんだよ。ハウス・ミュージックマーク・ロスコなんかを繋げならがら現代美術を語っていた人で、清水アリカの『革命のためのサウンドトラック』っていう小説なんかを持ち上げていたな。この小説は実を言うと結構好きだったんだけれど。」


●「で、文芸批評の<コトバを語るコトバ>と映画批評の<非―コトバを語るコトバ>の構造自体が違うってことだよね。その構造的差異自体を問題にするところから映画批評は再出発しなきゃならん、と。」


▼「平たく言えばそうだね。コトバだったら<「A」から「Z」>の23音があったり<「あ」から「ん」>の50音がある。映画にはそういうシステム、というか自律的な分節体系がない。だからロラン・バルトが「映画素」とか言って「味の素」みたいなケミカルな感じになっちゃう。で、小林が批判しているのは批評家が試写室というミニチュアに閉じ籠ること。これは、観客の顔を忘れるなっていう意味でもあるけど、試写っていうのは映画のセンセーションを取り除く恰好のメディアだっていってるんだよ。最後の部分を読み上げようか」。


●「うん。」


▼「・・・・映画批評家であることを止めて映画美学者になるのも悪いことではない。だが、僕はラオコオンを前にしたレッシングの方法で、映画美学が出来上がるとは思っていない。映画美学者は、思想家である前に先ず技術家でなければならぬ。そうなると映画美学者への逃げ道も困難であるから、大抵の映画批評家は他の道に逃げる。先ず映画から劇場と観客を除き去る。大いに映画のセンセーションを除き去る。あとに文学化された映画、というより寧ろ映画的文学が残る。批評は大変容易になる。何故なら、そうなると映画時評とは文芸時評の擬態であればそれでよいのだから。」


●「なるほど。まあここには、映画は集団芸術だっていう主張も含まれているわけね。」


▼「そうね。作る立場ではなく享受する立場の集団ね。で、<観客=集団>が見る前に<映画批評家=数人>がその映画をプレゼンテーションし、未然に作品の印象を流通させてしまうのが、映画ジャーナリズムの常套であって、観客が積極的にそれに騙されるのをよしとしているという暗黙の前提がある。ようは見る前から文学になっているんだろね。予告編っていうメディアが物理的に完全な文学装置に回収できない、むしろ文学を裏切ってしまう表象だからそれを補填するようにコトバがいるのかな。」


●「絵画の個展だったら、絵だけはがきにプリントするだけで成立するのにな。けど、小林の議論に戻るけど、技術家でなければならぬっていう主張がちょっと捉えがたいニュアンスね。」


▼「そうなんだよ。<コトバ=観念=象徴>のパラダイムで映画批評だっていばることよりも同時録音の映画かアフレコの映画かぐらいの判断ができるような知覚の訓練であったり、ズームバックかトラックバックかの違いを判断できるような、そういう知識の方が必要なのかもね。まあ批評する材料があればあるほどいいってことかな。それこそシネフィリー的に作品の量を見た方が批評に有効だとか、最新の映画を語るのが映画を語ることなんだとかへんなバイアスがかかると、失うものもそれだけあるってこと。しかし映画だって本だって絵だって作品に新しいも古いもないよ。美しいおばあさんだっているし、ブサイクな若い女だっているんだから。重要なのは、どうやって現在的な文脈で判断できるか、批評できるかなんだ。」


●「そうね。映画批評って、絵画批評と比べ物にならないくらいの情報量を相手にするんだからね。大変よね。」


▼「じゃあ、いっそのこと批評も集団でやればいいんじゃない?でも、だったら各パートに分けてやるのがいいのかな?映画批評集団○○○・・音声部門Aさん・・小道具部門Bさん・・カメラワーク部門Cさん・・そのすべてを統括する監督さん・・」


●「しかし小道具だけの批評って・・でも映画批評家集団の監督をするってのも倒錯的な遊戯ね。数学者軍団ブルバキみたいでかっちょいいかもよ。」