十字架は


昨日「十字路で」をアップロードしたあと、おそらく「十字」という記号の流れもあったのだろう、十字架ついてぼんやり考えていた。ぼくは子供の頃、十字架がひどく怖かった。その恐怖は小学三年生あたりまで続いていた。なぜ怖かったのかというと、イエス・キリストの表象およびキリスト教の表象に恐れを抱いていたからである。ぼくの家はそんなに熱心ではないキリスト教ということになっていて、それでも父親の書棚には宗教画の類や、聖書、キリスト教系の文学のコーナーがあった。だが、最初に恐怖を抱いたのは、父親の本棚のキリストではなく、近所の本屋でなんとなく立ち読みしていた『世界の偉人伝 キリスト』みたいな子供向けの伝記であり、その中にある挿絵であった。「キリストという人物はこれこれこういうふうな感じなんですよ」という説明的なイラストレーションなのであるが、腰に布を巻いただけの痩せた男が巨大な十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイラストに、ぼくはいいようもない衝撃的な恐怖を覚えた。そして、その日から父親の書棚は恐怖の対象になった。そして、いつのまにか、車やバスでたまに通る教会(詳しくは北大路堀川角ののっぽな教会とノートルダム女子学院のこじんまりとした教会と平安女学院の傍のレンガの教会)さえも怖くなった。教会の十字架に目を合わすのが怖くてしかたないのだけれど、しかし、どうしても、やっぱりそれをチラっと見てしまう子供の自分がいて、やっぱり怖いなあと思ってしまう、その繰り返しの時期がずいぶん長く続いた。それに、家の内部にある格子状の表象(ふすまとか天井とか)に、そうしょっちゅうではないけれど、わざわざ(縦:3 横:2の割合で)十字架を想像的に浮き上がらせては勝手にビビッていたりしていた。今でもその本のタイトルを覚えているのだが、学研から出ていた『怪奇ミステリー』という写真つきの本があり、その中に「なんとマリア様の目から血の涙が!」というオカルト写真があり、その写真があまりにも怖くなって、あまりにも怖いからその怖さを誰にも、一番仲のよかった姉にさえも、伝えることができず、だからと言ってそれを捨てるわけにもいかず、結局、あまり相手にされなくなったクマのぬいぐるみの後ろにずっとずっと隠していたのを覚えている。そして、ある日、その『怪奇ミステリー』をこっそりと一人で、加茂川中学校の近所にある加茂川に合流する小さな川に捨てに行った。そして、みるみるうちに『怪奇ミステリー』は水面から沈没していった。今思えば、不思議なものだが、小さい頃は宗教的な考えや、主義主張とは関係なく、随分キリストに苦しめられたし、懲らしめられたのだ。その『怪奇ミステリー』を捨てた時期は、たぶん姉が『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ)というギャグマンガをぼくに薦め、姉と一緒にぼくも読み始めた時期とかぶっていたような気がする。


<付記>


①マーク・R・マリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』/柄谷行人のブックレビューが読めます。
http://book.asahi.com/review/TKY200506280247.html

②上の文とは関係ないですが、1月10日付のメモ その後の展開があったようです。
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060205