映画ノート 1





■ 鈴木則文 『トラック野郎 御意見無用』 1975年




過剰である。話の展開が早く、カメラワークも激しく、色彩も豊かで、台詞の数も多く、カット数も多い。誰もがその「過剰さ」に、牙を向けることなどできないだろう。この映画においては、まさに「過剰さ」に対して「御意見無用」という禁制がつきつけられているのだ。しかし、その過剰さのすべてを「この上ない単純さ」において制御しているものがある。それは菅原文太の角刈りである。ロシア構成主義の絵画のように、直線で構成された<幾何学的単純さ=角刈り>。それはソーメンにさりげなく添えられたスイカが、そう知らずとも、ソーメンの複雑にからみあった曲線たちを際立たせるような「機能性」を重視したものなのだ。ハードエッジな角刈りと、その外界の一切合切。これほどの精彩なコントラストがかつての/現行の日本映画にあっただろうか。



J−ロードムーヴィーの金字塔、それはさしあたり『男はつらいよ』と『トラック野郎』に違いないだろう。そして、奇妙な符号の一致というべきか、映画会社同士の確執(松竹と東映)というべきか、腹巻き、そして七分袖のシャツこそがJ-ロードムーヴィーにおける主人公という観念を具体化しえたファッションなのだ、ということも指摘しておきたい。寅次郎は、江戸時代のお洒落番長だった伊達男ら(粋人)が追求したという「茶紺」の組み合わせに最後まで固執したが、菅原文太演ずる星桃次郎においては「江戸」は関係ない。その表象が教えるものは故郷や家族への愛などではない。故郷喪失者のポエジーなのだ。



最後に、脚本家時代の澤井信一郎氏に今一度のエールを、そしてアンコールの声を送りたい。傑作である。(2010-08-25)








■ ジャン・ルノワール 『フレンチ・カンカン』 1954年




映画のイメージ。それはかつて「豪華絢爛」において説明されていた。きらびやかな宝石を身にまとった憧れの有名人俳優が集まる映画祭。ホテルで待ち伏せするシネマ・ジャーナリストの有象無象。しかし、レッドカーペットにハイヒールの音は響かない。なぜならドレスの裾がその音を隠している。トップにのぼり詰めた女優はそこまで存在したがらないものなのだ。そう、徹底的に閉じている者こそが最大限の魅力を発揮する。パチンコのチューリップがたまにしか開かないとしても、強固に閉じた貝殻をこじあけないことには、真珠の輝きをついに目することはないだろう。



フレンチ・カンカン』は古き良きゴージャスな映画時代、映画が<多幸的>だった時代を見事に反映している。古典大衆娯楽である「レビュー」という表現形式と現代大衆娯楽としての「シネマ」。その両者を<歓喜の沸点>において、そのとぎれかかった娯楽の糸をしっかりと結んでいる。だが、そんな時代はもうとっくに終わっていると言わねばなるまい。たしかにDVDの光学信号装置に惜しげもなく刻まれたフランソワーズ・アルヌールの笑顔にうっとりすることは、少なくともマクドナルド少女の「リアルな仮面のヴァーチュアルな笑顔」を見るよりもゴージャスな体験であろう。しかし、映画祭や娯楽というコンセプトが古くさいものになった今、「人間と視覚」の関係項はより複雑怪奇になっているといわざるを得ないのだ。




強調しておこう。洗練に洗練を重ねた日本的(世界的?)文化形式としてのマクドナルド少女の不気味な笑顔がシステムとして作動している現代。そう、<あくまでも>この現在時から顧みて、50年代のパリのムーラン・ルージュで沸き起こった抱腹的な無邪気な笑いを享受すること、これこそがすぐれて「現代映画的な」問題なのだ。(2010-08-25)