現代戦争ノート 2



■ 現代戦争ノート 2




先日帰省して、京都の実家で『ゲゲゲの女房』を見た。このNHKの連続ドラマ番組は今年2010年の春あたりから放映された。2009年の暮れ、調布市内にはキャンペーンの広告物がちらほらと増え始めていて、ロケの撮影現場にもたまたま2回遭遇した。調布市役所の玄関前には片腕のない水木しげるの人形模型が置かれ、彼の格言の一つである「怠けなさい」という標語がマーカーで書かれていた。国民及び調布市民を統括する場所であろう市役所の前の標語で「怠けなさい」とは、「さすが(水木しげるのアシスタントも努めていたつげ義春が今なお住んでいる)調布だな」と感心した覚えがある。




調布の自分の部屋にテレビモニターはあるが、アンテナからのケーブルをつないでいないため、年間累計5分ほどしかテレビを見ていない僕は、しかし『ゲゲゲの女房』を少しだけ見ておきたかった。それは、水木しげるを含めた兵士が出征していた第二次大戦の戦地で(日本内地で上映するプロパガンダ映画制作のために組織された報道班の任務によって)撮影された、その映像が引用されているかどうかを確認しておくためだった。(僕が戦争に真に興味を持つきっかけとなったのは、20代頭に読んだ西谷修の『戦争論』、そしてバタイユの『呪われた部分』だった。・・ちなみにバタイユの翻訳者である出口裕弘氏は近所に住んでいる)




実家で二回分だけ見たが、そのどちらにも引用映像はあった。16ミリのプリントをデジタル映像にブロウアップした白黒の映像である。そのいずれもが、ドラマの流れに即した「説明的」なものだった。引用映像があるとしても、「それはきっと説明的な引用だろう」と推察したので、べつだん驚くこともなく、視聴を終えたのだった。




一言でいえば、安易である。それは例えば、僕が原爆ドーム(設計はヤン・レッツェル)の複製写真を何度も子どもの時から見ていて(というか見る機会を与えられていて)、そして原爆ドームを実際に見た時に、「これは実際の戦争体験の生々しさからは、切断されている表象なのだ」という醒めた感覚しか持てなかったことに似ている。実際、二回見たことがあるが、原爆ドームの複製写真に比べると、実際のそれは小さく目に映るという「一次情報」のインパクトが肥大していき、「戦争の内実」を表層的にであれ感知しつつ、ルポルタージュする視線がなかなか持てないという「やりきれなさ−不毛感」を感じるにいたった、ということをぼんやりと覚えている。原爆ドームそれ自体は「モノモノしい」が、それが伝えているだろう意味(「戦争は悲惨である」というクリシェ)の垢がこびりついているのである。重層的に折り畳まれた一義的な意味、比喩的に言えば、金太郎飴のようにどこをどのように切っても顔を出してくるであろう意味、「戦争は悲惨である」というメッセージ以上のものを読み取らせてくれないのだ。




メッセージはそれ自体において完結し、それ以上の外部を持たない。ゆえにメッセージは純然に機能するし、いらぬ「想像」をよせつけないことに大きく関与している。「想像力の抑止」という意味において、誤解を恐れずに言えば「原爆ドーム」もまた「ディズニーランド」に似てくるのである。強調しておこう。




ディズニーランドとは何か?それは端的に「想像力を抑止する空間」である。つまりディズニーランドとは語の真の意味で、ファンタジーをわれわれに与えてくれる空間などではない。それは擬似的なファンタジーがもたらす「圧力」であり、その「圧力」を人工的に製造する工場なのだ。(2010-08-31・・・つづく)