神ノート 1







1●「神」という表現はOKだが、「神様」という表現は、ちょっと許せない、とかねてから思っていたし時に人前で語っていた。なぜなら神は神であることによって、神として完結することによってのみ神たりうるので、永遠に人称化されえないからである。これは「神さまはいる」と「神はたんにある」の差異を扱うことになるが、あれこれ調べていたら、「神の擬人化」(つまり神「様」)批判というテーマ系があるのを知った。紀元前の古代ギリシャのクセノファネスが、この「神の擬人化」を(当時)あまりにも旧来的なものだとして批判していたらしい。初期ギリシャ哲学の断片集が出版されていたような記憶があるが、それに載っているのだろうか。クセノファネス。なにか大事なパートナーをやっと見つけたような気になって、とても痛快であった。そんな神な数時間を送っておりました。



2●クセノファネスつづき。・・・20世紀前半に活躍した量子力学者エルヴィン・シュレーディンガーが1948年にロンドン大学で講演した記録『自然とギリシャ人』(工作舎)をパラパラ読んでいた。巻末についているギリシャ哲学者年表を見ていると、クセノファネスの没年がわかっていない。なんでだろう。(生年は紀元前565年)。紀元前(つまりキリスト生誕以前)の哲学者は、タレスに始まり、ピュタゴラスプラトンアリストテレスを含み、ルクレティウスに終わっている。この総数29人。




3●第五章。ここで、クセノファネスの断片がいくつか引用されているが、「神の擬人化批判」は、ようするに「ある種の人間にとって都合よく作られたもの=神々」への攻撃に端を発していることがわかる。あと、印象的だったのは、「動物にとっての神」が動物からの視点でしか表現しきれない、それも、動物が人間と同じような表象能力をもっていたら、動物の神は動物に似たものとして描かれるほかないだろう、という指摘だ。




4●残念ながら、クセノファネスの記したテキストはあまりにも少ない。「西洋合理主義」と(イエス・キリストの顔貌に代表される)「神の表象への意志」は切っても切り離せないが、その前に「擬人化」が発動していることを忘れてはならないと思う。





5●擬態(モドキ)という機能は、昆虫、動物、植物をも含めての<他からの攻撃>に対する防衛本能であり、一方近年日本人が好むサブ・カルチャーであるコスチュームプレイ(コスプレ)もまた半ば本能的な擬態であるかもしれない。(何を守っているのか?捏造され、逆転写された<本当のワタシ>を?)





6●たとえば船橋市を擬人化したゆるキャラとしての、フナッシーはどうか?硬直したもの(役所的制度のハードイメージ)をソフトイメージ(ゆるいもの)へ転化するためのキャラ?オリジナルへの完全緩衝材?これも逆転した擬態であるにはちがいない。




7●コスプレ、ゆるキャラは、20世紀以降の「視覚中心主義」がエスカレートしたその沸点にあるのかどうかはわからない。ひとついえるのは、20世紀視覚文化を周到に下準備するものとしての「擬人化」にその多くを負うていると思われる。これである。それはほんらいありえない「神」を擬人化して「ポップ化=一般了解化」することから始まっているのだ。・・・というのが今回の主張である。





8●・・・いずれにしても近代小説のベーシックとなったであろう風俗研究、ラ・ブリュイエールの『カラクテール』(1688)など、もろもろのテキスト文化を経由している・・・と思われる。





9●あと、ニーチェの「神は死んだ」発言は、じっさいは「<神−様>は死んだ」という「キリストの人格化表象」への批判としても読めるのではないだろうか。





10●一神教的なフェーズをことごとく破砕するような多神教的パロディが高速度で流布する現代社会。<一>と<多>の抗争段階はあれど、<少数派>と<多数派>を横断する縦軸が見えなくなりつつある。もしくは無くなりつつある?どうかな?そうかな?


  



                         (5月下旬Facebook記入分より転載 )