中沢新一「映画としての宗教」




なぜか隣に住んでいる可能涼介は文学業界と多少の繋がりがあるらしく、毎月文芸誌が彼の手元に数冊送られてくる。そして就寝前、私の部屋でワインを呑んだついでに「これを読みなはれ」と薦めることがあり、雑誌をそっと置いていく。先日、彼が薦めたのは中沢新一の「映画としての宗教」だった(「群像」2007年1月号所収)。何日かたってペラペラとページをめくったところ、すでに可能の書き込みが入っている。まず、タイトルの横に「邪宗門を書く前?」と筆ペンで書かれている。「邪宗門」とは確か出口王仁三郎という超能力者をボスとする「大本教」(本部は今も京都府亀岡市にある)という異端視されていた宗教団体についての小説だったか。作者は高橋和己だったか。それにしてもなぜ「邪宗門を書く前?」なのか。





さて、「映画としての宗教」。これは中沢新一が2006年9月12日に中央大学で講義をしたものをテープ起こししたものであり、文面がおおむね声で語られたことをある程度念頭に置いて読んだ。読み進めるうちに、昨年港千尋の『洞窟へ』を映画論として読んだことを思い起こしたが、パラパラと流し読みしてみると、宗教学者としての知性が惜しみなく奔流していることに驚いた。それは「映画の思考」をより広いレンジで捉えることを可能にする。つまり「映画としての宗教」は「宗教としての映画」とひっくり返しても読めるということだ。





旧石器時代新石器時代と段階的に遡って自前の図式を酷使しながら「ホモ・サピエンス(の心性)は、洞窟における儀式を通じて映画的な構造場を作り上げていた」という仮説から旧約聖書における「出エジプト記」をトピックにしつつ映画『十戒』(セシル・B・デミル監督)を批判する(端的に言うとモーゼは表象批判の体現者だったが、『十戒』はたんなるユダヤ人(ユダヤ財閥)のアイデンティファイの道具として映画という表象に依存しているだけだと批判する)。つづいてシェーンベルグの未完の歌劇「モーゼとアロン」を引き合いに出しつつ「歌のイメージ喚起力」と格闘する作曲家(彼においては、音楽は根源的な思考のプロセスそのものを表現するものだから、感情に訴えるだけの「イメージ主義」を極力削ぎ落とさなければならない)と、たんにハリウッド超大作映画を撮りたいだけの映画監督セシル・B・デミルを並置しつつ『十戒』という「イメージの魔力を否定する思想を主題にする映画が、結果的にイメージ産業の手によって作られる」ことに映画産業が抱えるどうしようもないアイロニーを見て取るのだ。





多くの固有名を浴びさせられ、映画についての文章を読んだ気にさせる映画時評などとは違い、映画史における批評の内在性を『十戒』ただ一本に絞って、これだけの省察を綿密に展開しているのは驚くべきことだ。まあ、あえてケチをつけるなら、講義の途中、洞窟における儀式と映画的構造場を結びつけるところで、何かに取り憑かれたように中沢新一がメルヘンチックな挿話を導入しているのだが、それはパフォーマティヴな行為であるにせよ神秘主義的態度に思えたことだ。しかし、久々に手応えのあるものを読めたことは確かである。