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■ ダンス危機





昨日の続きはやめて、ダンスについて書きます。なぜダンスなのか?それは、京都のクラブシーンからダンスが追放されようとしているからです。いや、正確には、夜の1時以降は踊るな、という規制を実現させようとする市政の動きがあって、それに反対する運動が盛り上がっているからです。モリモトという男も、京都に行って、いろいろやっていると思います。まずはクラブ・メトロのオーナー山本氏の話を視聴してください。



http://www.youtube.com/watch?v=ZsjlSIEEzpg&feature=related




この話で重要なのは、ダンスはまず本能的な何かであるという指摘です。これはあたりまえのことです。でも、このあたりまえなことをそうでないようにする動きが出ているという、とても滑稽な事態になっているのです。




クラブでは若者が踊り、ダンスホールでは年輩の方が踊ります。そして駅の傍や代々木公園ではダンスのレッスンをしている中学生がいます。これを見るとついつい「君たち・・僕の映画に出てくれないか・・」と声をかけたくなります。客がいっぱいのアイドルでのコンサートでは手だけを使います。それも型が決まっていて、「ここで、こうする」という決め事に、みんなが、がんじがらめになりながら、かろうじて手のダンスが実現されています。それに・・ドガの踊り子の絵よりも、キース・へリングの踊っているストリートマンの方が、よりダンサンブルに見えます。




音が鳴っていて、自然に体が反応する、これが本能です。自然に、というのがポイントです。「踊りたい」というのは欲求で「腹が減ったから食べたい」というのも同じです。でも、「クレージュのワンピースを着て踊るよりも、ジバンシーのドレスで踊る方がステキだわ」とか「クラブ・メトロで踊りたい」とか「ハウス・ミュージックで踊りたい」というのは欲望です。ひとくちにダンスと言っても、この3段階(本能・欲求・欲望)において考えられるべきで、そして一番重要なのが本能とダンスが直結していることなのです。もちろん欲望も重要です。なぜならそれがいちばん文化に繋がりやすいからです。女たちが踊っているのを横目に男たちはグラスを傾け、煙草をふかします。そして、女に近づいて、「一緒に踊らないか?」と声をかけるのです。そして、気づいたら二人はソファの上で仲良くなっているのです。・・・これが欲望の文化であり、欲望には他者の視線が予め組込まれていることの証です。本能が重要なのは本能がより身体にとって直接的だからです。欲望が間接的であるのに対して本能はより直接的であり、身体が最初に覚えるのは本能なのです。本能が本能として機能しなくなるのは、別の何かによってそれを抑圧しているためです。攻撃本能というのがありますが、あまりにも激しい攻撃をしてはならないのが現代社会です。それに現代社会では人を殴るのは忌み嫌われています。「あいつは暴力的だ。」とか「あんなドラ息子を育てた親の顔が見たい。」となるのです。育ち盛りの子供にスポーツをさせるのはそのためです。そして、だいたいはスポーツから落ちこぼれた子供がゲームをやるのです。女の子には別の本能があります。リカちゃん人形の本能とか家庭菜園の本能があります。





もうひとつ重要なのはダンスは労働とかかわっていることです。労働者は本来的にダンスが好きだったのだと思います。私は「モータウン」(モータータウン)のことを言っているのですが、あれはとてもよい文化だったと思います。自動車工場での仕事のあとに、ちゃんとしかるべき遊び場があったのです。おそらく工場では身体の動きが均一化されているため、別の身体の動かし方を身体それ自体が欲していて、みんながそういうことをわかっていたのだと思います。あと、これはフェリーニの映画・・『ジンジャーとフレッド』で描かれていたことですが・・タップ・ダンスというのは最初は黒人の労働者が編み出したものです。監視がついている労働の現場では、絶対に喋ってはいけないので、脚の動きをサイン(記号的意味)にして仲間とコミュニケートしていたのです。これはダンスと言語を結びつける技法であり、手話と同じような脚話をやっていたのです。これはすごいことです。




日本はどちらかといえば土着文化ですから仕事が終わったあと、居酒屋に言って、酒をのんで上司の愚痴を言ったりしてるだけです。そこには身体的ななにかがありません。・・昔の農耕民は雨を降らすためのダンスをしていました。これは儀式的なもので、アフターファイヴの「ハレ」の時間のことではありません。「えんやーっとっと♪」という歌がありますが、これは漁師の歌です。舵を取る動きをダンス化するためのものです。これは労働を遊びに変えるひとつの技法であり、こういったことは歴史的、民俗学的にも研究されています。





ようするにダンスは多様な文化なのです。何が楽しいことなのかと言えば、インターネット上でクリックしたりすることではなく、(このクリック音ほど貧しい音がこの世にあるでしょうか?)大音響を浴びて、踊りまくることなのです。無印の服を着るのではなく、(いや、着てもいいのですが・・)、そうではない何かを身につけることなのです。私は複数人でカラオケにいかざるをえなくなった時は、必ず、意図的に先に酔っぱらって(又は酔っぱらったフリをして)、ソファの上に立って、踊ることにしています。そうでないと、不健康極まりないのです。座ってじっとしていると頭痛がしてくるのです。・・・心臓の拍というのがあるかぎり、リズムを伴った音楽を聞くと必ず身体的反応をおびきよせるものです。それが自然の摂理というものです。




話がとりとめなくなりましたが、・・・・要するに、ダンスを規制するのなら、その目的をもっと明確にすべきでしょう。麻薬売買の取り締まりでしょうか?繁華街という「悪所」をなくすことでしょうか? ウィークエンドの若者を別のどこか、無害なTVやインターネット、微温的なカフェに縛り付けておくことでしょうか?それにしてもクラブ・メトロはいいところです。私もかつて3、4回、映画の上映をしましたが、とてもいいところです。そして、あそこはおばあちゃんも踊っている場所なのです。多分、近所の人でしょうが、おばあちゃんが若者と一緒に踊るのが、自然なこととして受入れられているのです。・・・京都にいるゲイ・ピープルも多くのイベントを開催し、ゲイカルチャーの人々と、そうでない人々との重要な出会いの場所になっていました。今ではメトロ大学なる、酔いながら学術的なことや世相についておしゃべりするというイベントもあるらしく、とても良いことだ思います。これは、かの「哲学」を作り始めた古代ギリシャ人のスタイルです。飲みながら、ダラダラ話していても、多くの発見があります。そして現代人のわるいところは「飲んでいる状態でのことだから・・・」と言い過ぎることにあります。






思い出話ですが、私は一時期ダンサーでした。たしか、客は2、3人でしたが・・とあるクラブでバンドの演奏があり、そこで一人で踊っていたのです。そして「君・・君の踊りはとても個性的だ・・うちのバンドのダンサーになってくれないか?」とある男が近づいてきたのです。それがサイケアウツのオオハシ君でした。それから・・・忘れましたが、ギャラが1000円だったのは覚えてます(笑)。さて、今は12時29分・・煙草が切れたので買いに行きます。では。