読書ノート 11




■ ヨシダ・ヨシエ 「闘うマテリアル〜戸村一作覚え書」  その1





こんにちは。今日は日曜日、いかがおすごしでしょうか。さて、今日は戸村一作という人物について語りたいと思います。今は12時20分ですが、13時までには書き上げたいと思います。先日3月4日に上映した『磁器と火山』は、完成準備版ではなく、完成版です。完成版へと至る2年間に何があったのか、それは『磁器と火山』とは毛色のまったくちがう作品『RED RED RIVER 2』をつくり、東京と京都で上映したことです。そして短編を2本『本日休業』『すてきな他人3』(これはメトローム三部作の完結編です)をつくりました。その合間合間に、『磁器と火山』のつづきをやっていたのですが、完成版へと至る過程に、いくつかの問題が発生しました。まずひとつは実際の「おばあさん」を出演させるかどうか?でした。この映画の主人公タケオは「大木よね」という歴史上の人物に惚れ込んでいて、その<惚れ込み>が物語を作動させているのですが、完成準備版のほうでは「<惚れ込み>の描き方が甘いのでは?」というような指摘をもらいました。ので、実際におばあさんを出して、よねの隠喩として使えばいいのではないか?という誰でも思いつくことを、それなりにやってみようかと想ったのです。よねの分身としてのおばあさんを出演させようか?と。しかし、その結論に至りかけたにもかかわらず、実際のおばあさんを出すとなるとまったく別の映画になるのではないか?との、危惧が起こり、やめておきました。なぜでしょう?ようするに初期的な枠組みがあり、それを遵守することにしたのです。おばあさんを出すとなると、まったく別のドキュメンタリーになるのです。・・・完成版への道のりの中でも三里塚闘争関係でいろいろと調べていたのですが、いちばん面白かったのは「大木よねは戸村一作に惚れていた」、という事実があったことでした。これこそがドラマツルギーであり、私がいうところの「すべての恋愛は革命的である」という一大テーゼを実証するものです。恋、それは男と女の話で、それ自体はありふれたものです。戸村一作は三里塚闘争のボスであり、指導者でした。形式的には「成田空港建設反対同盟の委員長」なのですが、大木よねとは近い位置にいます。ちがいます。よねが積極的に彼に近づいたのです。なぜなら、よねは彼に惚れていたからです。この<惚れていた>というのはよねの自伝『大木よね〜三里塚の婆の記憶』(田畑書店・・ちなみに装丁は粟津潔)という書物を読めば解ることです。この中で「染谷かつ」というよねと親しかった別のおばあさんの聞き書きが載っているのです。戸村一作が一般的に知られているのは「三里塚闘争の指導者」です。しかし、見落としてはならないのは、戸村は、指導者であると同時に美術作家だったということです。実際に「闘う大木よね」という作品を作っているのですが、これは戸村一作の息子さんが所蔵しています。なんというか・・・あの「状況」といわれる切迫した緊急事態の中で、美術作家が指導者に転向した、というか転向せざるを得なかったのです。・・しかし、戸村一作の偉大なところは闘争中でも創作をやめなかったということです。闘争は創作の一部であり、創作は闘争の一部だったのです。彼の頭脳や、手脚は、五感は、それらの全体だったのです。





私の知る限り美術作家としての戸村一作を語っているのはヨシダ・ヨシエただひとりです。調査した結果、針生一郎(はりういちろう・・・数年目に彼をめぐるドキュメタリーが公開された)も戸村一作について語っていたと聞きましたが、ついに資料がみつかりませんでした。さて、ヨシダ・ヨシエのテキスト「闘うマテリアル」を読んでの感想を述べておきたいのですが、もう時間がありません。つつぎは明日にしましょう。それでは。