「2022年からの〈 真の映画史 〉」に向けての序説 #7

ワンカットを何とかして納得いくものにするための手順があります。まずは固定のカメラで撮るべきです。それから手持ちのハンディのカメラ撮るべきです。最初からハンディで撮っていたのではその映像の特性が分からないものなのです。「なにを伝達したいのか」がわかっている場合とそうでない場合があるのです。料理の写真においてさえもさまざまな探求がなされています。端的に言って商売上の探求ですが、カメラはそれがデジタルであるにもかかわらず、オブジェ、つまり料理のことですが、より正確に商売につながる写真をこしらえるためには、料理を囲う白い布製のシェードを用意したり、スポットライトやレフレックスを用意したりしなければなりません。それは、その類まれな、というか経済利益上の理由から撮られるべき写真が存在するのは、「美味しそうな料理」と「たんなる料理」の写真はちがうと見なされるからで、だいたいの料理写真においては「美味しそう」という演出の部分でカメラマンは頭を抱えるのです。「しかし、もっと美味そうにこのつけ麺を見せることができないだろうか?…でもあとでフォトショップで加工できるさ…なんとかなるさ…」と言っても、もともとの写真の出来が悪ければどうにもなりません。そして、たんなる光景、どこかの交差点や駅のホーム、公園のベンチなどなんでもいいのですがそういった単純ななにかにおいても「できるだけいい感じに撮りたい」と思うのです。人は根本的に「他人によく見せたい」と思うものなのです。ひとつの映像を得た場合、それはハードディスクなりクラウドなりに定着しているわけで、取り返しのつかないなにかに成っているのです。「あんな、下手クソな写真をSNSにアップしないでよ!」と後で怒っても、遅いのです。

 

 

 

より経済的な理由から逃れた、冒険的な映画制作はひとつの映像から出発してもかまわないのですが、ひとつの映像の中のいくつかの要素を見出すべきです。それはひとつの壁はひとつの壁ではなく、それ以上のなにかがあるからで、パイの断面のように20か30に折り畳まれた何かがあるからです。壁を見るということは壁にかかわる想像力の発生の原因もそこにはあるのです。たとえば……セメントであったり石材であったり、FRPであったり、つまり壁の素材というものが関わっていて、それにその素材を作るだれそれがいて、だれそれがいるということは、そのだれそれの生活があるはずで、そのだれそれはガールフレンドと同棲中であったり、手取りが24〜30万だったりするわけで…。……わたしは映像には、深層と表層がある、深層を読み解くベきだ、などと言っている訳ではありません。映像には表層しかありません。にもかかわらず表層には無数の何かがあるのです。おそらくはニーチェが「表層の奥行」または「表層の、その見せかけの奥行」と呼んだ何かがあるのです!…そうでないと…次のカットが見つかりません。壁のカットの次にくるカットが見つからず、投げやりになって半裸の男の写真を繋いだりするのです。そして「野上君、君の伝えたいことは一体全体なになんだね?」と不思議がられるのです。

 

 

そうです。ひとつのカットに繋ぐべきものはひとつのはずなのに、原理的にはいくつものカットから選べることを忘れてはいけないのです。そのひとつは原理的には無数の、天文学的な数の選択肢の中から選ばれるのです!…そして人々はあまりにも「連続性」というものに囚われています。もちろん話し言葉や書き言葉においては、連続性を保たなければ意味というやつが発生しないので…わかりやすい連続性が歓迎されると同時に飛躍を含む非連続性は嫌われるのです。

 

 

果たして映像の文法などと言ったのはいったい誰でしょう?サドゥールでしょうか?エイゼンシュテインでしょうか?いや、文法と言いつつも、映像に「てにをは」や定冠詞や接続詞や倒置法や付加疑問文があるからそこを取り違えないで映画を見ようじゃないか!、とそこまで言っているわけではありません。それに経済的理由に組み込まれていない映像は、より次のカットを決めにくいものなのです。そしてそこにこそモンタージュの真価があるはずです。