イマゴン、クラック



■ イマゴン、クラック




イマゴンと分層線のかかわりを、もう少し強調しておいてもいいだろう。・・・新しい経験の層、そして、それゆえに古くなってしまった層・・・去年着ていた春物のブラウスの層に連続している去年見た春の光景を追憶する今日の知覚−層化の突端。知覚されたものが構成する層、まとまった経験の層化。新しい経験の層は、古い経験の層を分断し、分層化させる力がある。


時系列によって層が分たれるということは、それを知覚した者を時間の俎上に乗せる。層の分化過程は、人を歴史化させるし、さらに歴史化した人は、それ自体が複雑な地層と化していることに気づくだろう。



ところで、バームクーヘンが、はたして単層なのか、複層なのか?こういった問いも時には必要となるかもしれない。が、イマゴンが、狭義の「映画」を相手にしている限り、バームクーヘンという現象枠は、はからずも、映画的探査機によって、解析される対象となるのだ。いわばバームクーヘンという自明物の生成をそれ自体複雑化させて探査するのである。ゆえに、バームクーヘンをドキュメントする折衝面を増殖させ、探査枠を無限に延長できるという力能をイマゴンは持つことになるだろう。



クラック・・・ひび割れ、裂け目、これもまたイマゴン的生産にかかわる重要なモメントである。クラックはイメージの単一性の内部に実際的な関わりをもつ震源地としてあらわれる。バームクーヘンにはひとつのひび割れ、裂け目が発生しているとする。そして君は裂け目に沿って、両の手で、バームクーヘンをゆっくりと割ってみる。すると、なるほど別の形態が出現することになる。バームクーヘンの表面の滑らかさとはちがう別の表面。水平面(表面)に対する垂直面(断面)。これが断層を断層として出現させる。


断層を断層として認める分層線を把持するにはある種の手続きが必要なのだ。表面に自足せず、横から見、斜めから切り、真上から覗き、真下から突き刺し、時にまっぷたつに割ってみる必要がある。・・・ところで表面と表層が必ずしも同一であるわけではない。まさしく、表層を発見できるのは、深層に対してではない。深層とはあまりにも便宜的に過ぎる二元論的措置であり、深層よりも重要なのは「表層が表層たるには、分層化された地層が発見されなければならない」ということである。


クラックは、俄然性の言われである。(にわか雨のような)所与の自然であるばかりか、クラックの生成には、流れのスムースな知覚を拒絶する突発性がある。太陽が地表に照りつけ、地表の実相、つまり地層をあらわにするのは、突発的にクラックが出現するときであろう。あるいは「ある瞬間に」裂け目から崩壊する壁。クラックの帰結としての「崩壊=ハードな構造のハードな露呈」もまた、予期せぬ俄然性のいわれである。ウェットなイメージは、連続的であり、親和的であり、冗長である。対して、ドライなイマゴンの出現は、それらの同一性に一瞬にして亀裂を入れ、イメージの同一性を解析し、探査するばかりか、それらを外にリリースするひとつの跳躍的作法−戦術なのだ。なにゆえか?・・・それはわれわれが、もはやイメージの囚人とならないために、である。