イマゴン、脱エートル





■ イマゴン、脱−エートル 





エートル、われわれを悩ますエートル、われわれを歓喜させるエートル。われわれを脅かすエートル。われわれが突き刺すべきエートル。エートル・・・etreとは日本語で、あの「存在する」ないし「ある」と指示するフランス語(etreのeにはアクサン・デ・ギュ)であり、英語では「ある」を指示する「be」に対応するものである。あのながらくこの世を支配して病まない「・・・は、・・・である。」「・・・は、ある。・・・」であり、強力な同一化作用である。なぜ、エートルなのか?なぜフランス語なのか?それはさしあたりどうでもよい。重要なのは「ある」を指示する言語単位がまさにあり、<「ある」の世界が「ある」>ということがいかにして十全に機能し、またそうであるがゆえに、いかにしてわれわれを機能不全(存在論的病理)に陥らせているか、ということである。さしあたり問題とは、問題を問題として発見できないことだろう。つまりはエートルの問題を。



ところで「ある」世界を問題にするとはどういうことか?コンクリートの裂け目から雑草がはえだし、それをくまなく知覚できるのに、グラスに注がれたシャンパンの隙間からはついに雑草はあらわれない、ということは?・・・雑草はたしかに「ある」。それらの多様性は多様に知覚できるし、手でもぎりとることもできる。しかし、それらは「ある」、という以上に「あるようになった」、かつての状態からかくかくしかじかに「なった」、という事実性のもとで外界に晒されたobject(対象)でもあった。間に生える雑草。しかるべき場所、にではなく、無軌道に、ありとあらゆる場所に、あるかなしかの隙間に。



エートル、それは確かに美しくも単純な動詞かもしれない。しかるべき時間に、しかるべき場所に、しかるべき態度で、しかるべきドレスコードで、夜会に現れる貴婦人。しかるべき場所に整然と並んでいるナイフやフォークやナプキン。エートルのイマージュ、それは確かに美しいこと、一切の視線を遮断してとりおこなわれた秘犠のような現実なのかもしれない。イマージュがある、という以上に、エートルのイマージュが、エートルする。というだけで。・・・それらは「たんにイマージュがある」、というよりもいくぶん豊かな現実なのかもしれない。



さて、今回は「エマニュエル・カントの『純粋理性批判』におけるアンチノミー論、その最終部にあたる「第四アンチノミー」がいかにしてイマゴン的方法と関わるのか」についての考察に入るまえに、そのイントロダクションとして、「脱エートル」をメモしておいた。「イメージ−冗長性−病理」の存在論に対する戦闘体制。イメージの一切合切の<脱−エートル>、その無限の/有限の旅程のために。







脱エートル化した低強度のイマゴン。イマゴンを作成するには2つの対象映像を用意すればよい。この場合は「2枚の写真を1枚のものとして」並列化し、1つの断層を形成させている。(中心に断層線としてのジップが走る)。しかしながら、2つは、「時間、場所の同一性」「出来事の同一性」においてただちに「oneness 1つ」として立ち上がる。イマゴンはその強度を目指す場合は、無関係性を志向するが、低強度のイマゴンは、ダイアグラム的、説明的、解釈的になってもかまわない。(写真は、2013年3月13日13時26分に撮影 東京都新宿区 戸山公園から高田馬場に向かうあたり)





これは脱エートル(地層の破壊)のイメージであって、脱エートル化したイマゴンではない。ここに注意。