BALL&CHAIN 10





先日「FUCK CONNECTION OF IMAGE」とペイントの画面で書きアップロードしたが、どういうことなのか、少しメモしておこう。・・・まずは、イメージにはある強力な連結(コネクション)の作用がある、ということだ。これを第一に理解してほしい。この世界は、まず、なにがしかのイメージ作用によって成り立っている局面がある。(「そうそう、そういうイメージで、そう!それでOKよ。」「なるほど、わかりました、こういうイメージでやればいいんですね。」などなど)。私生活、勤務先、恋人との会話など、部分部分においてあらわれでているが、それらがぜんぶいっしょくたになってイメージのバリアを形成していると想像すること(まさにイメージすること)もたやすい。バリア=コネクションということである。




(イメージが物 matterなのか、事 thingなのか、その両方を論理的に追求するとついに同一の出来事になるのではないか、という不可逆的な時間がもたらす疑問符つきのイメージこそが、イメージの最大のミステリーなのだろう)。




それにしても、イメージとは、(イメージのイメージとしてのやわらかさとは実に裏腹に)、「硬いもの」であり、停滞と逡巡を促す何かである。イメージのバリアはとても強力な何かだ。人々はイメージを作り上げ、イメージを操作し、イメージを享楽しもするが、そのイメージに飽きたら、次のイメージを求め、新イメージによって、旧イメージをたやすく書き換えてしまう。その繰り返しがイメージそのものの存続条件であり、イメージそれ自体が隠していることだ。イメージは現代社会において、全的であり、全能的であり、すべてを呑み込んでしまおうとするダイナミックな何かであり、しかもそれ自体が<そこから>逃れることのできない宿命的な何かである、ということもできる。



コンテの語源はコンティニュイティーで、これはコンティニューの名詞形。インベーダー、平安京エイリアンギャラクシアンなど、初期のテーブルゲームアーケードゲーム)をやっていて、ゲームが終わると、「TO BE CONTINUE」と画面に出てきて、カウントダウンのナンバーが同時に表示される。「0」になるまでに100円玉を投入すると、続きからゲームを再開することができる。コンテとは「続く」こと、「続き」を確認すること、そして「続き」それ自体を続けることだ。いわば、コンテの存立平面には「連続性を確保する」という目的が備わっている。それは映画制作においては補助的な何かであるが、シナリオを視覚的にわかりやすくするという狙いもあり、同時に撮影台本、録音台本も備えることができる。



イマゴンとは、イメージのメタレベルに立つものであり、完全にメタであることを追求しようとする何かである。それはイメージに回収されないばかりか、イメージを最大限に利用する。それはイメージの運動の持続のため、ではなく、イメージの断線であり、分層線であり、破局であり、再生である。イメージ、そこから逃れ出る苛烈な何かであり、もうひとつの運動をすみやかに奏でるものだ。




今日は、怒涛の怒涛ルコーヒーではなく、黒猫喫茶、シャット・ノワールドトールより居心地がかなりよい。いろいろ考えた。いろいろ考えることが不毛かもしれん、ということも含めて。







これは絵コンテに使っているノート。無印のなかでも一番の良品。


最近は、近所のあちこちで造成工事、解体が・・。