「2022年からの〈 真の映画史〉」に向けての序説 #8

あまり大きな動きはありません。大きな動きを期待するべきではありません。「朝、目が覚めたら、日本は社会主義になっていました。さあ配給された朝食をいただきましょう、」とは成らないのです。資本主義という大きな動きを内在化させたシステムは、真に刻一刻、あまりにも大きな動きを求めすぎるので、そうなっているに過ぎません。さらに大きくなろうとする動きは、何人かの人々を宇宙に送り込んでだれそれが、「宇宙はどうだったかね?」と聞き、答えさせる術を心得ているのですが、それが真に人々に期待されていたのかどうかは別問題です。それに、地球の気候変動がどうのこうの、と言われても、やはり、というべきか、わたしには体感として気候が変動している!という感覚がありません。なのにYouTubeも含めたメディアは「気候変動がどうのこうの…」というものですから…「さて、気候が変動しているらしいが、いったい、どこがどういうふうに変動しているのだろう?」という疑問が残るのです。体感は個人差があるので仕方の無いことです。そして日本に居続ける限り…。

 

たしかに夏は暑く、「昔は、おれが子供の頃はこうじゃなかった、こんなには暑くなかったよ」と言えるでしょう。しかし気候が変動しているな、とまでは思えないのです。「人間はまだ危害を真に被っていない。動物たちを見たまえ、地球温暖化のせいで、こんなにも絶滅危惧種が出てきているではないか!」と言う向きもあるでしょう。


わたしに考えられることは呼吸の出力側、つまり息を吐く行為において、二酸化炭素の排出量を減らすことでもあるでしょう。ある種のSF映画の登場人物のように無表情で呼吸を最小限に留めること……よくは分かりませんが、「世界をよくしよう」という動きがあり「世界を悪くしよう」という動きはあまりありません。そして「世界をよくしよう」という人々はそれを阻止する動きにはかなり敏感になっています。「君は世界を悪くしようとしているね」と直接は言わないのですが、「あの企業はヤバい。世界を悪くしようとしている。あの企業のこれこれこういうところを是正しなければならない」ということを公に言います。なので「世界を悪くしよう」としているのは個々の人ではなく、より大きな単位、企業やある種の組織体だということができます。


しかしその企業も、たとえばアパレルの企業も、悪意があって「より合理的、効率的なやり方でたくさんシャツやブラウスを製造して、より二酸化炭素を排出し、人々を苦しめてやろう」としているわけではありませんし、むろん、これからの企業は「環境に配慮すべきだ」という紋切り型が幅をきかせ、その命令に背くものは世の中の嫌われものになるでしょう。


一方で、「そうだ、自分の着るシャツだって自分で作ることができるはずだ。ユニクロや何とかに頼るべきではない。」と思う向きも多分にあるはずです。おそらくは綿花の栽培の仕方の学ぶには2週間かかり、そしてその土地を見つけるのに1ヶ月は必要であり、パターンを引く技術や、型紙を作る技術、そして縫う技術がいる、それにそもそも「自分はどういったシャツを着たいのか。」がわかっていなければならない、ということに気づくはずです。


環境、ないし気候変動の話に戻りますが、地球温暖化危機や炭素の排出がどれだけ人類を苦しめるのかがある程度わかっているのならば、VRの技術を使うなりしてそれを表現し、体感させる何かを開発すべきです。ないし全世界同時配信される動画なりTV番組なりを作るべきです。全人類にかかわる問題であればなおさらそうなのです。わたしは体感できないので体感させる何かがあればよりいいのではないか、と思っているのです。あるいは、国連が、パリ協定やら京都議定書の発行を仕切っている組織体がそういうことを推し進めるべきであり、何人かの資産家が、貧乏人の何十倍も長生きできるような資産家がその実現のための資金提供をすべるきなのです。そうでないと、あまり興味深い問題提起とはならないでしょう。炭素と言っても、あまりピンとこないものなのです。炭酸飲料がピンとくるほどにはピンとこないのです。