■ ポール・ヴィリリオ 『パニック都市』
今年の春あたりだったろうか、渋谷にある宮下公園の命名権をスポーツブランドのナイキが買い取り、近い将来、宮下公園から「ナイキ公園」となることに反対する署名運動に出くわしたことがあった。一説には既にナイキが東京都から土地を買収したということだが、真相はわからない。宮下公園は渋谷の雑踏からやや離れたところにあり、騒擾空間からある程度遮断されていて、買い物の途中など、ごくたまにではあるがそこで一息つくことがあった。そういう意味で、公園がナイキ化すると有料のバスケットボールなどの施設ができて憩いの場が失われるのではないか、と危惧している人も少なからずいるのではないだろうか。又、渋谷駅に隣接する東横百貨店の屋上はいつからか知らないがこれまたスポーツブランドのアディダスがその地を借受け、又運営しているフットサルの練習場になっている。その場所にたまたま出くわしたことがあるが、都会の夜の狭苦しい屋上、それでもこうこうとした照明の下で、張り切って玉コロを蹴飛ばしている子供たちを見ていると妙に憐れな気がしたものだった。彼らは無邪気に遊んでいるに過ぎないのだが、どうも心から遊んでいるようには決して見えない。親の言いなりになって塾に通わされている子供とさしてかわらない、少なくとも僕の目にはそう映った。・・・それにしてもスポーツと戦争はよく似ている。緩慢な身体が忌避され、より速く、より的確な動きをする身体が奨励され、要求される。個人競技、集団競技を問わず、司令するものと司令されるものが一分のタガをも狂わせることなく、敵の動きを予測しつつ瞬時瞬時の動きを遂行してゆく苛烈な戦場を生きること、それがスポーツ選手に求められ、また、戦士に求められたことであった。
ヴィリリオの『パニック都市』(2004/邦訳出版2007)。さて、現在の日本語(の俗語)に「パニクる」という表現がある。「パニックに陥る」を省略して「パニクる」と言う。人は論理的に筋道を立てて行動しようとする限り「パニクる」ことから逃れることはできない。あるいは人が予測を立てながら行動しようとする限り。例えばドライバーが車のクラクションを鳴らすのはその通行に際して、邪魔な通行人が前方にいるからだし、もちろんドライバーはクラクションを鳴らせば「その人はよける」ことを予測して、それを鳴らす。しかし、人が車をよけずに逆に車に突っ込んでくればドライバーは一瞬にして「パニクる」だろう。「何だお前は!」とか「死ぬぞ!」とか言語化する以前にドライバーはハンドルを切り、頭がホワイトアウトしている状態のまま、どうにかして事故を防ごうとするだろう。行為Aから行為Bへ移行する時、移行を論理的な規則性に求めればそれだけ、行為Bが妨げられた時に「パニクる」のだ。なぜなら「クラクションを鳴らせば、必ず人はよけねばならない」、この規則性が社会的に暗黙に共有されているからである。この場合「よけたので前進する」という行為Bへの移行がある種の<非ー論理性>をもって妨げられたことになる。パニックもまた、<論理的に>あるいは<構造的に>突発する。
ヴィリリオの『パニック都市』。ここで描かれているのは9・11テロ(2001)以降の世界像である。その世界像は後期資本主義に属性をもつ。さて、後期資本主義が注目するのは農業でも漁業でも製造業でもなくサーヴィス業でもなく、他ならぬ「監視」あるいは「管理」であった。これをあっさりと指摘していたのは『記号と事件』(1972−1990までの対話およびテキストを集めたもの/邦訳出版1992)におけるジル・ドゥルーズだが、この「監視」という映像レヴェルのトピックを、ヴィリリオは多くの中断、飛躍、省略をともなうギクシャクした文体をもって展開する。資本主義が「監視」に注目するとはどういうことか。例えば(少し古い話だが)、警備会社SECOMのステッカーの偽造品がネット上のオークションで売買され、さらなる需要を生んでいるのを見る限り、「セキュリティと監視に欲望が集中している」という時代へのシフトを誰しも疑うわけにはいかない。<物質(防犯ステッカー)への欲望>の上位にある自らの財にたいする<監視−セキュリティへの欲望>。しかし、はやまってはいけない。多くの識者が唱えるように、「人間が欲望をコントロールしているのではない、資本主義自体が人間の欲望をコントロールしてゆくのだ」、ということを見逃してはならないだろう。つまり、「監視セキュリティによって財をコントロールする」という欲望自体が資本主義という魔物によってコントロールされた結果に過ぎないのだ。ここでは「自分がどういう欲望を持っているか」ではなく「自分がどういう欲望を(外的な力によって)持たされているか」という超越論的認識こそが問題となる。
ヴィリリオの『パニック都市』。彼の認識は悲観的である。憂いたっぷりに、時に攻撃的に現代を嘆き、メスを入れる。この書でひとつ強調されているのは、9・11の報道映像である。当時、たちまちクリシェと化したWTCビルに突っ込む戦闘機の爆破映像が繰り返しループされていたこと、このループという観点からヴィリリオの思考は展開する。ループという時間的な現象を空間座標に(三次元的に)置き換え、それをイメージによる大監禁、イメージの壁、というメタファーで捉える。いずれにしても「われわれ現代人はイメージによって包囲されている」(イメージ空間が人間空間に先行する)という通説のヴィリリオなりの強調なのだが、イメージ(「イメージ」という語のイメージも含む)を単一の概念としてやり過ごすのではなく、むしろヒエラルキックに捉えているところに僕は彼の独創を見た。それは<本来ならば無定形であるはずのたんなる「イメージ」以上に「イメージの垂直化」がより支配的である>という超空間的な認識のことだ。イメージの強固な壁に包囲され、身動きとれなくなっている現代人の悲劇、部屋に居る時は壁が二重化されており、外にいる時もイメージの強固な壁に包囲されるしかない現代人の不可避的悲劇、これこそがヴィリリオが言う「パニック」の温床であり、彼が凝視するイメージの現在的実体に違いない。(彼は、映像のループ現象の帰結は端的に「恐怖」をもたらすと指摘しているが、それはループによって「麻痺」をもたらし、「麻痺」に気付かないことの恐怖だ、と僕なりにパラフレーズしておこう)
ヴィリリオの『パニック都市』。この書は現状認識の書である。つまり、「犯罪防止」「事故防止」「防災」などが「人類の平和な暮らしを守る」という建前(大義)のもと、その実人間の行動を抑止し、生産を反−生産へ向かわせ、自己閉塞化を生んでいるという現状認識を、より世界的なレベル(といっても扱っているのは先進国だけだが)で考察している。ヴィリリオがいう「情報の超地球物理学的大監禁」は同時に「地球のリミット」であり、現在の政治とは、つまり「地球のリミットをめぐる政治」でもある。・・・そして、デパートの屋上の狭い敷地にフットサルの練習場を作ること、これもまた「リミットをめぐる政治」、例えば国家エージェントが火星を開拓し、それを不動産が取り仕切り、分譲地として地球人の誰かに手渡されることと同質の「政治」であろう。(それが物理学的である、という一点の意味で)われわれはどこまでも壁を作るだろう。四方にそびえ立つイメージの強固な壁から逃れようとする限り、そしてあらたなスクリーンの砂漠へと向かうために。(2009-10-21)