イマゴン、表象から介入へ




イメージとは共振にかかわるものだ。「その犬は、まるで、名犬ラッシーのような・・・」というとき、その犬と名犬ラッシーは共振しあっている。イメージ対象に対して、思わぬ図像の出現、思わぬ映像の出現が語「その犬」とともに共振している。「まるで○○・・・」というアナロジー(類推能力)は一定数の対象から選択された瞬時の跳躍である。しかし問題は跳躍が限定されているところにイメージの限界がある、ということだ。この限界を限定づけている政治は必ず存在する。分類学それ自体が問題なのではない。分類学の流通のさせかたが問題なのである。





限定的イメージの政治学とは、諸媒介を正常に作動させる装置であるばかりか、関係性のネットの中でのみ機能する。イメージとはそれによって関係づけられた関係の純粋無限流通であり、理解のエコノミー、つまり「考えなくても分かる」という強力な処方箋の蕩尽を生きるしかない。イメージはそれ自体、死に絶えることによってしかイメージたりえない。イメージの死、それはひとつの層を形成し、別の層の出現を待つ。なつかしい思い出の層が出現するのは、必ずあたらしい層の形成途上からである。





一方、イマゴンとは、瞬時にして無関係性をおびき寄せる戦術だ。それは「関係的表象に無関係的介入を」というスローガンとともにある。(表象から介入へ)。イマゴンとは表象をそれ自体表象に留めさせておこうとする同一化のメカニックを暴こうとする。ゆえにイマゴンがイメージを流用しようとするとき、イメージの質的接合面をその内部において発見し、イメージ理解の領土(イメージが諸−理解へ向かわそうとする領土)を速やかに盗用し、転用しようとする。イマゴンがそれに対して「非−理解のエコノミー」の生産にかかわっているのだとしても、なんら問題でない。イマゴンは伝えない、その代わりに感覚させる。