ダブル・ファンタジー



■ダブル・ファンタジー





かりに状況なるものがあるとして、状況というやつに飽きてきた。どういう状況か、と問われても的確に説明できないだろう。映画館はたまに行くが、スクリーンよりも映写室が気になってしかたがない。また映画界とはつきあいがまったくない。撮影中の新作に出てもらった俳優は映画、演劇、CMそういう事務所に所属しているが、撮影が終わり、事務所にギャラを振り込んだあとには、つきあいがさっぱり途絶える。それはそれでいいだろう。なにも積極的に分離しているわけではないし、ありあわせの現実をやりくりしているだけだ。そういうやりかたで映画を撮っていることにたいし、さしあたり不満はない。


じっくり、ゆっくりいろいろなことを考えていると、いままでの行いは遊びに過ぎないという結論に至るが、これからも遊びに過ぎない、という姿勢で充分よい、ということになった。誰かの受け売りでこの映画はいい、とか、いまいち、とか、ダメとかいうことを昔はよく聞いたが、そういうこともなくなって、すっきりしている。宣伝屋がまわりにいない。いいことだ。



西谷修が『夜の鼓動にふれる』(副題「戦争論講義」1995)のなかで「現代は無の露呈の時代だ」ということをいっていて、その解説に前後して、「無の露呈から出来事への期待へとシフトする」と、いっていたように記憶している。無の露呈から、というよりも無の露呈ゆえに、といったほうがよいのかもしれない。「出来事が起こらない、という耐えがたさから出来事を期待する」のは、「出来事がまったく起こらない、ということをひとつの大きな出来事としてみなすことができない」からである。この場合、「出来事は起こってあたりまえ」という前提が働いている。20世紀ジャーナリズム。



アクシデントなきイヴェント。それはアクシデントそのものよりも理想だろうが、アクシデントの永続過程として消耗戦が課せられている場合(それはもうアクシデントがないというアクシデントが延々つづいている、という天国にいちばん近い地獄の状態だ)、個々のイヴェンタリーが向けられるべきは、来るべきアクシデントへの徹底的注視だろう。細かいことをすっとばしていうが、1985年のジル・ドゥルーズが指摘した「イマージュ-ムーヴマン」(映像-運動)、「イマージュ-タン」(映像-時間)を取り巻いているのは実のところ、現実世界の「イマージュ-アクシダン」(像-事故)と「イマージュ-イヴェント」(像-出来事)なのではないだろうか。




「無の露呈=出来事を欠いた世界=出来事を期待する世界」という前提は、歴史の終わりという発想に近いものがあるが、現実は終わらない世界の終わり方を想像的に予想することができるだけで、実際は終わらないということが終わらない。終わって欲しいと思っているわけではないが、(子供の頃は切望していた時期もあったが)、終わらないことへの期待として出来事が要請される。ちょっとでも変わったもの、ちょっとでも見栄えのするもの、ちょっとでも笑えるもの、ちょっとでも美味しい食べ物、これらは出来事ではないし、小さな物語(リオタール)に回収されるほどのものでもない、無の露呈に近いがそうではないなにかである。でなければ限界の限界か。「戦争はなぜなくならないか」という問題の立て方自体が今は有効ではない。翻って「平和ボケはなぜ終わらないか」という問題の立て方も有効ではない。