時間









およそ西洋的な文脈で時間というものを考える場合、よくヘブライズム(キリスト教的)の直線的時間とヘレニズム(ギリシア文化/哲学的)の円環的時間という対比において語られることが多々ある。またエリアーデが、(少し文脈は違うが)「歴史の完成」という理念による生の充実と「永遠回帰宇宙論」による生の充実について述べているのも参照にされたりする。そして生の充実を全うさせる理想社会をユートピアと称するならば、こうした区別に基いて、二種類のユートピアが考えうるというのがユートピア論の理解の手助けになる。歴史主義的ユートピア宇宙論ユートピア。この場合、前者を終末論的ユートピア、後者を循環論的ユートピアと言いかえてもよい。そして、この二つの時間に応じて「生の充実」も異なってくる。しかし、正しくはわれわれは時間を直線的に感じることもできないし、循環的に感じることもできない。現実的には直線的な時間の中に円環的な時間が出来あがっていたり、逆に円環的時間の到来を確信していたのが、いつまでたっても閉じずに、時間が蛇行を描いていたりする。一概にどちらが正しいという問題でもないのだ。両者が複雑に入れ子状に入り組んでいる状態を外側から把持しうる時間の組織の仕方、その条件をこそ問わねばならないのだろう。しかし、ヘレニズム的時間であれば、その超越的な理念として、循環論的、宇宙論ユートピアを掲げた想像力、ヘブライズム的時間であれば、旧約聖書にみられるような終末論的なユートピア思想を掲げた想像力がどこからやってきたのかは、知るよしもない。






物語の組織の仕方とは、ある瞬間Aとある瞬間Bをどう、いかにしてつなげるか、ある朝にハミガキをしている瞬間と、翌日にハミガキをしている瞬間をどうつなげるか、その時間組織にかかわる方法以外のものではないだろう。たいていの場合、ある任意の瞬間Aに出来事(事件)を設定したからには、A以前とA以後がどうしても発生してしまい、そのどちらかにBというポイントを不可避的にもってくるしかない。ようは過去と未来をまずは単一の点として固定してやることを無視してはどんな物語も物語れない。いかなるシナリオライターでも時間の固定化を悟性的に消化することなしに、物語を語ることはできないだろう。しかしAとBを論理的に関係づけるために、いやがうえにも時間を形式的に相手にしなくてはならない、つまりまっとうな、あるいは世間的にまっとうだと思われているシナリオを書く必要(社会的要請)こそが、現実のヘレニズム的時間とヘブライズム的時間の入れ子状の複雑性を捨象して、そのどちらかでやるしかないというオルタナティブに着地させてしまうのではないか。つまり、AとBが決定的に関係づけられるためには、両者が発生する時間のポイント−場所の確定性を客観的に保証してくれるような共通感覚(コモンセンス)や生活習慣に対する「信」が支えているといえるのではないか。例えば、この「信」に対応するものとして演劇から借りてきた「劇」という概念を酷使するのが一様に有効であると思われているし、その有効性においても演劇的映画の面白さは残っているのだろう。しかし、ほとんどの場合、映画を映画の時間として知覚するという習慣は、ある種この共通感覚や生活習慣に自らを誘導させながら「今、まさに、これが目の前で起こっている」という「劇性を知覚する信念」を見ることとほとんど同じ意味なのではないだろうか。本来はバラバラな知覚が起こりうる、にもかかわらず起こりえないという瞬間を成立させているのが、小林秀雄が『映画批評について』で指摘したその都度のセンセーション、感覚の作用なのではないのだろうか。しかし、それでは劇作家やシナリオライターが前提しているような共通感覚が<現実的に>共通感覚でなくなったり、生活習慣が<現実的に>生活習慣でなくなったりした場合、物語の知覚のされ方は、論理的にはいかような変化がもたらされうるのだろうか?(つづく)