美術ノート 10


 ■  松浦寿夫展   仙川アヴェニュー Plaza Gallery



どんよりと曇った日曜日の午後、さっき読み終えたばかりのブラック・ノヴェライザー、サミュエル・R・ディレイニーによる『ジ・アインシュタイン・インターセクション』内の一節、「百万の歌声が一つの賛歌にとけあうさまは、耳鳴りに悩まされながら眠るようなものだ。」を胸に収めつつも、そして「ああ、傘を持ってくるのを忘れた」「ああ、洗濯ものを入れておくの忘れた」「ああ、もう月末だ。支払いが。」と、まどろんだ忘却感覚があまりにも加速度的に増えてゆくことを多少気にしながらも、ランチはどこで食べるか、部屋に帰ってカブラ料理でも作るか、なんだよ、カブラ料理って、・・・食べたいのは「バーネットにゅうめん」、「カヒミ・カレー」、「フランク・カブラ料理」(笑)。ありとあらゆる世界の前衛料理。マリネッティのマリネは不味そうだ、やはり未来派はやりすぎだと思う。マステ、ちゃんと食べられるものを。・・・ムッシューニコル、それでは『LET IT BREED』をウェルダンでどうぞ。いらねーよ。タイヤなんか食えねーよ。・・・・そして、まだまだスティル・クラウディな日曜日の午後、あまりにも慣れた足取りでブラブラと散歩していた。いつのまにか人気の多すぎるとなり駅の仙川へと出てしまい、この土地になんの用事もないことを思いとどめ、江戸川区あたりに着地するだろうエレクトリック・メールを一本送り、「WHYWHY、この土地は、なぜこんなにもファミリーロマンティックなディープニュアンスに覆われているのだろうか、母親が子供を大事に大事に、○○ちゃん、かわいいかわいい、○○ちゃんはママより、かわいいのよ、ママよりかわいいのはこの世で○○ちゃんだけなのよ。・・・頬刷りしすぎて、皮がずるむけるような光景が次次にやってくる。なぜか。最後はオイディプス、だからか。」・・・仙川、ここはシッカロールの聖地だった。おっとっと忘れかけていた。今は通俗的なホームセンターが建っているが、以前は和光堂の大きな工場があったのだ。和光堂といえばシッカロール生産の大元。つまり、仙川はシッカロール主義者の総本山であり、その崇拝者が全国から参拝しなければならない土地なのだ。円錐状に固められたシッカロールが厄除となる。仏像にもシッカロールを、クリスチャンにはパンとワインを。そんな場所の一画で松浦寿夫展をたまたま、ほんのたまたまみつけて、驚愕した。屁が三発出そうになった。tadao andoのデザイン、灰色のバターを一本道に、ゆっくりと、ていねいに塗り込めたような、そんな不気味にお洒落なハイソサエティカルなアヴェニューにあるギャラリーの中には人影ひとつない。ガラガラのガランドームだ。まさに神秘の不在/不在の神秘。





●季節とその構造1


構造が変換の規則である限りにおいて、あらゆる季節は別の年の季節とアナロジカルな代替物となる。鍵盤上の「ド」が「ファ」と変換可能なように。「暑い」という記号を入力すると、そのシニフィアンとして「夏」が出力され、誰もがうなずくように。




●季節とその構造2

構造がシステマティックである限りにおいて、季節はめぐる。これも誰でも知っている。『グラモフォン・フィルム・タイプライター』の著者、フリードリッヒ・キットラーはシステムを「0ー9」あるいは「AーZ」の循環メタファーと捉え、構造がリジッドな構造に留まるものではなく、循環性を内包しているものと捉えた。ハイアラーキーからリゾームへ。ここで季節を水平に捉えるのではなく垂直に捉えてみよう。冬の上には春が、春の上には夏が、というふうに。そして最後にロープを結ぶように閉じてみよう。季節はめぐる。




●季節とその構造3


ロープを閉じた「季節の輪A」を投げてみよう。そして「季節の輪B」と空中で合体するとしよう。(シャキーン!とかそんな感じだ)。合体した「季節の輪AB」には「8」が代入されている。<春2夏2秋2冬2>を加算したメディウムとして。しかし、なぜ合体が必要なのか。その前に少々迂回してみよう。松浦寿夫の個展にはタイトルが二つだけ表出されていた。ひとつ、「この夏とその他の夏」。ふたつ、「いくつもの夏」。前者は展示分の作品すべてを指示するもので、後者はインビテーション・カードに掲載された作品のタイトルだ。前者は季節の時間性をあらわし、後者は季節の空間性をあらわしている。問題は前者の「その他」が含意するものだ。これは夏一般の知覚が作者に還元されるものではなく、すでに不特定多数の他者にも明け渡されているということ、季節の知覚一般がもはや「誰のものでもない」しかし、「私が見ている夏は私が見ている夏にちがいない」というアンビバレンツを孕んだ知覚のモードとしてのみ成立することを含意している。それは「他人の夏こそがひょっとしたら私の夏なのではないか。私が今、暑いと感じているとすると、他人もまた暑いと感じているのではないか。その暑さを感知する感覚はまったくもって同一なのではないか」という「自我輪郭の溶解/崩壊/解体」と関わっている。「この夏は(とりあえずは)私に帰属している」とすると、それをいとも容易に解体してしまう「その他の夏」。こういった知覚不可能/決定不可能な次元をも含めてはじめて「夏」が、条件的に成立する。で、あるからして、季節が季節として成立するためには、季節の輪が原理的に「2つ」必要最低条件として準備されなければならないのだ。あなたと、わたしの。






例えばだ、ジャスト100歳生きた人は<春夏秋冬春夏秋冬・・以下同様>を400回生きたことになる。単純計算して季節の輪ABつまり2年分の季節が50回訪れることになる。そうすると8×50で400の季節を人生に内在化させることになる。四つ打ちのハウス・ミュージックミニマリズムのように、次々と、順番に。泉谷しげるの「春夏秋冬」をリピートして聞くように。それは実に有限的なニュアンスを孕んだ図式的な円環であるばかりか、さらにはヘーゲル史観的リニアリズムを保証するものだ。一切の保険の類いが単純加算的人生観を裏打ちするように。(SFというジャンルがヘーゲル史観を宇宙的単位で奪回した、と某批評家が言っていたが、これは真っ赤な嘘である)。しかし、ここで「無限」という概念を導入すると、「ボロメオの輪」的な三層構造的季節が見出されることになり、リニアな季節観、人生観が一気に廃棄されることになるだろう。(数値は「2」から始まるが、無限は「3」から始まる。マンデルブローのフラクタル幾何においては消失点が表象できないことに注意しよう。)。さて、ボロメオの輪的季節観とは何か?僕にははっきりとはわからない。さしあたっていうと、たまにお見かけする「季節感のないファッション」に代表されるものかもしれない。上半身は夏もののタンクトップ、首にはマフラーかショール、そして下半身は春物のスカート、そして冬物のブーツ、腰にはホッカイロ、口元にはガリガリ君。センスがいいのか悪いのかはさておき、夏的要素と冬的要素と春的要素が混在しているが、しかし、それで秋的要素に還元されるというわけでもない、といったファッション。(いや、これも真っ赤な嘘だな。笑/笑)





●季節とその構造4



われわれは「季節とその構造3」で捉えた構造のメタレベルに立つことはできない。メタ季節はありえないばかりか、人生に外部はないからだ。(100歳生きた人が「95歳から人生に外部があった、とは、聞いたことがない。)季節はつねに脅迫的につきまとい、われわれを誘き寄せる。われわれは冬を待っているのではない。冬に追われているのだ。例えばだ、秋が近づいてなんとなく携帯メールの絵文字に紅葉を使ってみたり、また使うにあたって少し照れくさくなるのは、この季節が季節たる同一化作用(粘着性)の強制力があるからだ。そして、あらゆる季節が内在的であり、外在的な季節が想像的なものでしかないのだから、クリスマスにモミの木が用意され、正月にはカガミ餅が用意され、夏にはビキニの水着が、花火大会が、サザンオールスターズが用意されるのを大声で怒ってみても、誰も納得しないだろう。(怒る人は想像力が豊すぎるのだ)。季節の象徴化を促すありとあらゆる記号が細分的かつ周到に準備され、われわれは通年、記号化された季節に転移しながら生きることになる。松浦寿夫の自覚はまずここにある。季節を象徴的に生きることに肯定的懐疑を差し挟むこと、<その行為がたとえ無駄にして無益、不毛中の不毛であったとしても、>象徴的季節にノンをつきつけること。松浦寿夫はこの「メタ季節のなさ」、「人生の外部のなさ」という超越論的コンセプトから、絵画的考察をすすめ、2011年の秋の世田谷区のはずれのギャラリー、そのホワイトキューブ内に見事に定着させたのだった。「夏」からありとあらゆる象徴をそぎ落とそう。季節をただちに爆破しよう。季節を見る眼をただちに爆発させよう。「何がある?アベセデール。」・・「緑と青の境界線」・・「あっファミリーマートね!」・・・「何が見える?キャトル・セゾン。」・・・「君のパンティストッキングが少しだけ破けている・・・僕にはただそれだけのことしか見えないのだ。」





ピエト・モンドリアンの『ブロードウェイ・ブギウギ』は、ブロードウェイを走る車の動きを抽象化したものだとよく言われるが、正確には車の動きではなく車間距離である。80年代中頃に流行したアーケードゲームラリーX>をアブストラクトしつつフィックスしたような感覚だが、僕は会場を後にして、なぜか、この絵を思い出した。)