盛り上がらない対象でいかにして盛り上がるか パート2







盛り上がらない対象をいかにして盛り上げるのかではなく、盛り上がらない対象でいかに盛り上がるかという発想はバカにすべきではない。音楽にしても、コードを10個くらい使って複雑な進行で曲をつくると、それなりに豊饒で壮麗な曲ができやすいのだが、ワンコードかツーコードで盛り上がる曲を作ることにおいてこそ才能が問われることがあるのだと思う。絵画にしたって黒と白だけでいかに盛り上がれるかということを試してみなければならないし、料理だって、タマゴととり肉だけで、どれだけ盛り上がれ、かつ美味しいたべものができるのかを試してみる機会を積極的に持つのがいい訓練になるだろう。(珍しい食材を使っているだけで、一人前のクッカーだと思っている人もたくさんいることだし)。映像だってぜんぜん盛り上がらない二つのカットをモンタージュしてみたら意外に盛り上がるということがある。(どこそこロケ!とかだれそれとだれそれが共演!とかでいっぱしに盛り上がっているつもりでも、映画自体はぜんぜん盛り上がらない映画もたくさんあることだし)。言葉で考えることにしてもぜんぜん盛り上がらない単語を20個だけ使ってめちゃくちゃ盛り上がることを考えるのが本当は面白いのだ(岡崎乾二郎はこれでかなり盛り上がってはると思う)。まあ、盛り上がらない対象で盛り上がることで盛り上がるのは、盛り上がらない状態をいかにして盛り上がらすかという課題と通底しているといえば、そうなのだが。ついでに言うと、「超○○!」とか「めっちゃ○○!」という言い方がいかに本当は盛り上がれるはずの表現を盛り下げているのかに気づかなければ、盛り上がれるはずの盛り上がれない対象Xはいつまでたっても盛り下がる一方だろう。速度に回収される「めっちゃ○○!」(速度)と「○○みたいな〜。」(遅延)は、本来は面白く出現させることができるはずの事象を社会的な時間の秩序に即座にあてはめなければならないという不安と表裏一体なのだろう(付け加えると「めっちゃ○○!みたいな〜。」という表現は成り立たない)。で、京都の妻から久々のメールが来ていた。「シューマンの四重奏曲をなんとかホールに聞きにいって感動!」と書いてあった。なんかいい暮らししてそうだ。たのむから5000万送ってくれ。シューマンより感動させてやるから。