制作メモ


ずいぶん前からの習慣だが、パスタとゆでタマゴを食べたいときは、作る手順上、お湯を一緒にしている。沸騰したお湯の中に、まずはタマゴを入れ、その次にパスタを入れる。この場合、素手でつかんだタマゴをポトンと落とすと、大方鍋の底にコツンとあたって、ひび割れた殻の隙間からシロミがゆらゆらと現れるので、大きめのスプーンかおたまじゃくしに載せて、ゆっくり沈ませるのがよい。でも、今日は、ゆでタマゴが食べたいわけではなく、「シロミのゆらゆら」を撮影したかったので、うまく殻にひびが入るように、素手でタマゴを落とした。窓からの自然光で十分なので、照明はなし。湯気を極力避けるために、やや引きめから狙い、ズームで焦点を合わせた。鍋の底が紺色か黒いものを使えば、ゆらゆらはキレイに際立つだろう。でも、底が銀色のものでも、十分に撮影のしがいがある。でも、沸騰中にタマゴを入れると泡のぶくぶくで、白いゆらゆらが見えないので入れるタイミングに注意しなくてはならない。たしかゴダールの『彼女について私が知っている2、3の事柄』のワンシーンで、漆黒のコーヒーの中でコーヒーフレッシュがぐるぐる回転しているところを俯瞰のアップで狙った箇所があったが、シロミのゆらゆらもそういうありふれた、でもちょっと映画ではなかなか見れない映像だろう(ゴダールはたしかそのシーンに「世界の分裂生成性」を説明するような詩的なコメンタリーをかぶせていた)。二つの物質の組み合わせがキネティックな変化をもたらす。この場合は温度差(熱いものと冷たいものの接触)がその物理的な原理になっているのだが、コーヒーフレッシュも、ゆでタマゴも充分に冷やしておいたほうが、鮮明な模様を描いてくれるのは言うまでもない。……この映像を「文学」に回収するのはたやすいだろう。例えばとある主婦がひとりで昼食を食べようと、キッチンに突っ立って、煮え立ったお湯をじっと見つめているところを3,4回カットバックさせるだけで、「不安」や「空虚」や「絶望」というキーワードを想起させることができるだろう。オフ(画面の外の声)で旦那が職場で女子社員と楽しくしゃべっているところや子供が学校でいじめられている声でもかぶせれば、鍋のぐつぐつを知覚する妻の視点は観客の視点(観客が前提している映画の文学性)に回収しやすくなり、観客にある抽象的な孤独を与えることができるだろう。そして妻がタマゴのシロミのゆらゆらをふいに「触りたい」と思って熱湯に指をつっこんで、「ひゃっ」と叫ぶところでカットして、次のシーンで、バックにメシアンでも流しながら指に包帯を巻きつけてあるところを見せれば、それだけで「何かが起こった」ことになるのだろう。だが、ぼくが撮りたいのはそういうものではまったくない。既存のイメージ=文学に回収される(文学的にモンタージュされる)ことを前提にしているわけではない。シューティングはたんなる身体的な訓練であり、又、いかに盛り上がらない対象で盛り上がるかという訓練なのである。