■ 酩酊回廊 16
君はシャルルヴィルへ行くだろう。
パリ郊外、リモージュの大学で文学の研究をするといいながら、
かのA・Rの故郷へとゆっくと足を運び、つぶさに彼の幼少期の足跡を
見て取るだろう。
季節はもう秋だ。
A・Rの『une saison en enfer』(1873)の終章、
君はその最後のフレーズを繰り返しながら、日本で、そして
ヨーロッパで始まろうとしている、2011年の、その厄介にして快楽的な「秋の観念」を
マッチで燐を擦るような手つきであっさりと燃やしつくしてしまうだろう。
*
おお、なんと、香しき秋の光!
*
ベンヤミンがコートのポケットに一杯に入れて食べまくった無花果のこと(種村季弘『食物漫遊記』参考)や、
かつてフールズ・メイトに掲載されたフェリックス・ガタリのインタビューのこと(彼は編集部に出入りしていた)、
大地震直後の明るい陽光が降り注ぐ赤坂見附の公園の水辺で語った宮脇愛子の作品のこと。ゴダール、フェリーニ、
ケージ、悠治、武満(の限界)、クストリッツァ、タンギー、ポロック、中平卓馬、東松照明、鈴木大拙(の限界)、
そして、ニーチェ。最後には皆が皆をしてズブ濡れになった東京の一画での豪雨。
性能の良い機関銃のように、それがえんえんと終わらないバカ話であるにもかかわらず、
精妙明朗なる哲学的センスをまじえてのバカ話の酩酊回廊。
しかし、ついに我慢しきれずに放った
われわれの立ち小便、
歩きゆくコンクリートに突如はめこまれた鉄のグリッドから
真に開放的に穿たれた立ち小便は、その下15メートル、
なんと爽快な音を放っていたことだろうか!
(しかし、いったいぜんたいアレはナニにぶつかって、あんな音を発していたのだろう??(笑))
永田町、立ち往生のpolicemanが見るともなくこちらを見ているが、
そんなことはおかまいなしだ。
(ちなみに永田町界隈のコンビニンスストアでアルコール飲料の販売許可がおりたのは、
ほんの2年前のことである)
さて、今日もこの国のボスがあわてふためいているとしよう。
どうしようか。フェミニストのおばさんよ。
コミュニストのおじさんよ。
子供はまだ九九のかけ算も覚えきれず、
新自由主義がすこしも自由でないことにいら立つわけでもなく、
ヨーグルトをほおばっている。
(あるいはトルコの酒 YENI RAKU を鯨飲している)。
*
君は、そしてシャルルヴィルへと足を運ぶだろう。
小脇に抱えているのは、ジュネのジャコメッティ論かもしれないし、
コーランかもしれないし、(私がプレゼントした)フーコーのカント論(岡崎乾二郎の装丁だ!)であるかもしれないし、
アンドリュー・ワイエスの複製印刷のちぎれ端かもしれないし、
自作の小説であるかもしれないし、
i−phoneから垂れ流されるアラビアンポップスのミュージックヴィデオかもしれない。
(アラブの中にラブがある、と誰かが言っていた)。
*
しかし、君は、やはり、何が何でも、シャルルヴィルへと向かうべきだ。
一刻も早く、誰よりも早く。
ジュラルミンの鋼鉄になって、分裂症者の彼岸の彼岸となって、
しかし命だけは落とさずに。達者で!!