サタデーナイト・フェイバリット #3



■ ベサメ・ムーチョとおっさんのエロス





18時、ジバンシィディオールか、¥100,000は下らないだろう琥珀色のワンピース・エレガンスを極めたY、そして丸井メンズ館的な今風ユース・ファッションのKと、メトロ神楽坂駅B5出口から出たと地上で合流する。少し歩き、イタリアンにてソーセージセットと旬野菜のマリネとビールの少しの夕食を取ったあと、O君の送別会へと足を運ぶ。ほどなく店に辿り着く。カンパリソーダからはじめ、あとはずっと香草系のリキュール。ザッツ・シャルトリューズ・フェスという感じだ。もとより、店に入るなり、おばさんたちのカラオケ声(もちろん、メインディッシュは演歌だ!笑)が店内を満たしており、興という興を極めていたわけだが、宴たけなわ、フラっと店に入ってきたひとりのJ-ダンディなおっさん(ちょっと伊丹十三に似ていた)が、L字型カウンタを避けて、ボックス席をひとりで陣取り、バランタインのロックを煽りはじめた。麗しのママはそのおっさんを気づかってか、隣にちょこんと座り、世間話かなにかをしはじめる。今日は送別会だ。この日の主人公、O君はカウンターの中で、氷をステアリングしたり、シェーカーを振ったりしている。つまり、彼は働いている。




酔いもほどほどに、エレガンスYはビヨンセのバックトラックだけを聞きたいと主張しはじめ、それだけのために、曲をチョイスし、リザーブする。BGMそのものとして流すという粋なメソッドだ。しかし曲が始まっても聞いているどころか、ずっとカクテルをチビリながらオシャベリし、「エレガンスな無視 for ビヨンセ」を決め込んでいる。なんのために曲予約したのかがさっぱりわからないが、しかしこれもまたカラオケの有効活用なのだろう。そしてユースファッションKはBOφWYの「BE BLUE」。音程をはずしまくっていてストレインジにカッコいい。導入部で前奏をちゃんと聴き取ってオクターブの調整を行うというフィジカルなリハーサルよりも、「おお、ビーブルー来た〜!!歌いまくるぜ!!」という欲求が先行しすぎているために起こる現象だ。しかも音程をはずし、それに気づいたがゆえに戻すという事が最後までなされない。脱線したままのブルートレインがそのまま終着駅まで暴走しつづけるという快挙。無我夢中とはこのことだ。すばらしくヒップだった。そして僕はここ最近のマスト・ハミング・ソングであるサラ・ヴォーンの「バードランドの子守唄」(ちなみにコルトレーンの「セイ・イット」とともに催酔剤的酩酊促進曲)。途中で入るスキャットをさらりと流し、単語のシラブルもクイックリーにごまかす。聴くも無惨な感じだが、まあまあ、チャーリー・<バード>・パーカーへの背伸びしたオマージュだ。歌が下手クソで良かった、とつくづく思う。





と、カラオケ・セオリーを無視して、ひーひー腹を抱えて爆笑しながらおおいに盛り上がったところで、店内に哀愁ただようメロディが流れ出した。それは、まさにおっさんが歌う「ベサメ・ムーチョ」。ストイックなスタンダップスタイルで、しかもモニターを一切見ず、完全に「そら」で歌ってらっしゃる。すばらしい。そのイスタンブールから取り寄せた最高級の天鵞絨(←これ、「ビロード」を変換したらでてきた)の生地のようななまめかしくも官能的な歌声は、実にパッショネイトでありながらもクール。僕たち3人の歌(一人はバックトラック・リスニングのみ)が掃除機であっさり吸い取られたホコリとなったのだった。





その後、ベサメ・ムーチョのおっさんは僕たちの居るL字型カウンタに席を移して、ひと息をついたあと、「・・・君たちは〜、あ〜、30代ちょい過ぎだよね〜、うぃ〜。・・・」というくたびれたリップサーヴィスをかまし、そして次々と曲を入れ、美声を放っていった。そのアンニュイとデカダンスを讃えたデクレッシェンド。レパートリーの多様さ。ここはもう、神楽坂ではない。マドリードの場末の居酒屋からニューヨークの最先端のクラブ、大阪は千日前あたりの立ち飲み屋から、芦屋のスノビッシュなお嬢さんのコーラス隊までも連想させる撹乱的な選曲。「ベサメ・ムーチョは一日にしてならず」という格言を胸に刻み、おっさんは明日もどこかで歌うのだろう。






さて、バーテンダーO君との別れが近づいてきた。「京都に引っ越した女のもとへ」というなんとも美しい理由で東京を離れる彼の送別会に僕は欠席するわけにはいかなかったのだ。そして君がその繊細な指先で最後につくってくれたビター・スウィートなカクテル、ピカソが愛飲したというリキュール/コックテイルをこの胸にしたためて、僕はまたいつか、君の良質のシャイネスを讃えたタイニースマイルを北方の海辺で思い出すだろう。・・・2011年11月12日、月が明るい。