2007年4月27日、東京メトロ清澄白河駅A3出口から出てshugoartsにおいて開催されている中平卓馬の個展に行った。二枚一組の写真はいやが上にも岡崎乾二郎の絵画(絵画の展示方法)を想起させたのだが、それ以上にドゥルーズのイメージ論、つまり「イメージAとイメージBを並列させたものを知覚することは<AマイナスB>あるいは<BマイナスA>(マイナスの結果ではなく、マイナスそのもの)、つまり両者の<差異>ないしは<差分>を知覚することに他ならない」ことを目の当たりにした。自我撞着(自家中毒)を生起させる相対性、つまり<ひとつの表象物に対してのひとりの私=1対1対応>の性質とは、あきらかに異なる展示方法は十二分に可能性があると思われた。そして<写真=瞬間>というイデオロギーを見据えた上での<写真=時間>を生み出す手法なのだと思われた。






中平卓馬岡崎乾二郎が実際何をどう考えてデュアルな展示方法(見る主体を頭数に入れるとトリニティカル=三位一体的な展示方法)を試みているのかは知らないが、素朴に面白い試みだと言える。そして(展示作品のおおかたが片方は縦の構図、一方は横の構図でまとめられているのがやや気になったが)個々の写真そのものは、ダイレクトに飛び込んでくるモノの<モノモノしさ>、例えば「流れ落ちる水は流れ落ちる水以前に水そのものの物量=圧力であり、その圧力が網膜を刺激している」といった当たり前といえば当たり前なことを教えてくれるのだが、その事象をあまりにもそっけなく捉えていることに驚きを禁じえなかった。






それにしても中平卓馬は、一方で浮浪者の写真を好んで撮り、他方で無機的なオブジェ、神社の狛犬や狸の置物を撮り、なぜ、それらを並列化させるのか、そしてなぜそれらを同時に見せるように配慮するのか?






そこに浮浪者という意味(例えば格差社会といった意味)や動物という意味(例えば格差社会から逃れている生き物といった意味)やそこから派生する物語を読み取った気になったとしても、中平卓馬の写真そのものを見たことにはならないだろう。







要するに<人間は人間である以前にモノである潜在性がつねにつきまとっている>ことを見据えることなしにアウシュビッツにおける大量虐殺(例えば死体の皮膚をリサイクルしてランプシェードを作るように指揮するヒトラー)や「戦争そのもの」を思考しぬくことはできないという歴史の客体性を彼は知り抜いているからこそ、人間をあたかもモノであるかのように撮影することをあえて選択し、さらにはモノ化された人間が、あたかも動物の置物であるかのように見せるモンタージュを試みた上で、その捉えがたい<両者の間隙>を視覚的に伝達しようとしているのだとは言えまいか。







中平卓馬、彼の思考とは、おそらくは事物の<同一性>と<差異性>を(それが不可能であるゆえに)同時に見つめ、同時に見つめるがゆえに無限成長する<事物と事物の間>(ゴダール)を我が身をもって生き抜き、見続け、写真を撮り続けるという実践倫理に引率されることに他ならない。







中平卓馬、展示会場の奥壁にピンで止められた、その人の写真、赤いキャップを被り、膝をどっぷりと組んでこちらを刺すように見るシャープな姿勢を捉えた写真は、<世界という他者>に対峙しうる絶対的なひとつの生命を謳歌している、その孤独にして陽気な姿に見えた。





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