スプリング・セール








ぼくは今、文章を売っている。官能小説のプロットの生産である。2000字くらいのものに纏めたものをある組織のある人物に提出するのだが、そこからどう流れるかはぼくには未知の領域であり、知らされることはない。単価は決められている。おそらくエロゲームのシナリオなどにも流用されている可能性も高いが、これでとりあえずは食べていけてるので不満はない。最近考えさせられるのは、性風俗や性産業が成立するその背景には、「人間は性的欲求の消費によって攻撃欲動を去勢されなければならない」という逆説的な社会的な要求があるということだ。性的欲求の差異化をいかにして推し進めていくかという資本の命題において、「性器中心主義」はすでにして脱構築されたというのが昨今のパラダイムだろうが、古い人間はまだまだ性器に拘っているようだ。古い人間がなぜファルス=男根に固執するのかと言うと、それが資本の構築と関係していることを知り抜いているからである。これは近代主義的な立場であり、ポストモダン・ポルノへの趣向があらわになるぼくの文章が「物足りない」と言われる所以である。脱−性器化はすぐに性器回帰現象に近づき、性的関係を「意味という病」(柄谷行人)に陥落させてしまう。ポルノを意味化するのは危険である。主体を欠いた大量虐殺はポルノであり、主体を過剰にエスカレートさせる玉砕はポルノである。(戦争のイメージとポルノのイメージを並置するゴダールモンタージュが教えるのはこのことだ)。あらゆるポルノ=売春は代理戦争であり、戦争の回避手段である。しかし、これを否定したところで、売春がなくなるわけではない。もっとも根深い問題は、ファルスと裏腹な関係にある「消費=カタルシス」それ自体の消費プロセスの戦争性であり、行方のない快楽それ自体の根源的な必要性である。・・・人間は欲深いが、それ自体は悪いことではない。問題なのは、弱者の集団が快楽を犠牲にして<善=財>のステージへと昇りたがることにある(ぼくはプルードンが言うように貯蓄が悪いと言っているのではない。弱者が<財=善>というイデオロギー的虚構を疑わないことに問題があると言っている)。ラニン・アウェイ。同性愛者=労働者階級=あらゆるマイノリティーの結線を可視化し、快楽を、アロマを導入してやることだ。ラニン・アウェイ。「秘密はない、それこそが最大の秘密だ」とウィトゲンシュタインは言った。