一人で



■カラオケに行く。予想以上にうたった。ぼくにとって声を出すというのはあんがい重要なことで、一定のアベレージで声を出してやらないと内臓がやられてしまうことを体が覚えている。最近はケーキ用のリキュールをまぜた紅茶ののみすぎなのか、胃がキリキリ痛んでいたので、救われようとするかのごとく、雪崩れ行く。二種類のリモートコントローラーがテーブルの上に置いてあり、ひとつはヴォイス・チェンジャーと言うんか、男の声を女の声に変え、逆も試せるリモコンが置いてあった。一曲だけためしてみたのだが、離れたところでは女の声(というか女の声のお化け)が響いているのに、近いところでは男の声が響いている。近くで鳴っているのは、もちろんぼくの声で、ようするにマイクと増幅器に媒介されていない地声そのものが耳の近くから強調されて聞こえてくるのだ。うたうと同時に聞こえてくる声がジェンダーというバリアーをつくり、それが近くと遠くに還元されて鳴っている。自分の声の二重の層ができあがっている。性の二重化の物質化?でも、ひどく贋物くさい声だ。女の声への生成変化は贋声ゆえに、まったくおどろかなかったが、二重の声の層を同時に聴ける空間そのものに驚いた。でも、この機械はカウンターテナーのようなうるわしき中性性を堪能させてくれるものではない。男性性と女性性のジェンダー分割をより強力にする機械であって、かえって不気味である。まあ、ぼくのうたや声の出し方が下手くそだけなのかもしれないし、じっさい下手くそなんだけど。


オーソン・ウェルズ監督の『フェイク』(英題は『F FOR FAKE』1974)の音を消して、バド・パウエルの『クレオパトラの夢』をかけながら見る。『フェイク』はすごいかっこええ映画やなあと感覚だけで気に入ってた映画で、約10年前京大前のステーションで借りて見ていらい、ダビングしたビデオを何回も見直していた。ビデオは引越ししたときになくしたと思ったが、ダンボール箱をひっくりかえしたらあった。なぜバド・パウエルなのかと言うと、ピアノのスタッカート切れ様と『フェイク』の1カット2秒くらいのリズムがトゥーマッチするという単純な理由から。こういうテスト的な見方はけっこう新鮮で面白い。映画から言葉の強制力を剥離させることによって、映像が別ものになり、じっと見ていると、少なからぬ再発見がある。かえってよく見えるのだ。