ふと



■頭をよぎった矢野顕子の『BROOCH』(1986)をHMVで買いなおして久しぶりに聴く。矢野顕子では『ただいま』(1981)の次に好きなアルバムか。1曲目から4曲目は高橋悠治の作曲であとはクラッシックのカヴァー。最後のDebussy作曲の『Le Temps a Laissie son Manteau』っていう曲がすごい(転調が)すてきな曲で、今聞いても死ぬまでに『メヌエット』とこの曲はピアノで弾いてみたいなあという思いが続いていることを確認。ぼくは矢野顕子の旦那さんでもあった坂本龍一の作曲の工程や思想を非常にドキュメンタルに綴った書物である『坂本龍一全仕事』っていう分厚い本にYMOの音楽よりもかなり影響受けていて、若い日の彼のちょこっとしたラフなメモとか落書きみたいなものもそのまま掲載されていて2年くらいの間に繰り返し読んだ本のひとつだった。当時はかけもちで西武セゾン系の「つかしんホール」というところにも映写しにいっていて、バイトの最中映写室の暗がりの中でずっと読んでいた本で、映画を見るのんそっちのけやった時期だ。音楽理論は今も詳しくは知らないけど、武満徹の『音、沈黙と測りあえるほどに』と並んで、音楽への認識を深めさせてくれた貴重な本だった。むかしはKORGのアナログシンセ、POLY800-2がうちにあって、あれこれ『全仕事』を見ながら、フレーズを弾いて確認できたんだけど、今は楽器を何も持っていないし、音階を操作できるメディアがない。キューベースとかってどうなんやろう。欲しいような気もするし、いらんような気もする。でも作曲ソフト欲しいな。





■カラオケに行く狙いは声を出すことでもあるけど、もうひとつは自分の歌声を録音することにある。マイクをとりつけられるタイプの初期のMDプレーヤーで録音する。これをすぐに聴かずに一定期間つけもののようにつけておいてといて、忘れたころに聞いてみるのが、意外に面白い。一人で聴いている限り、人に聞かれるわけでもないし、別段恥ずかしいことはない(というか慣れた)。鏡を見たとたんその空間には鏡がうつっている自分の顔しかないという切断がおこなわれるように、確実に空間を変容させる力がある。ただ、このMDを聞いて自己の声の機械的再生産によって遅延されうる自己の差異(というか差延)のイメージを自己消費するのではなく、聴きながら自ら声を出してコメントをつけていくのだ。それで、そのコメントをまたMDに同時録音する。それをまた聞く。この異常といえば異常な作業をなんのためにやっているかと言うと、最終的に現在制作中の短編映画のサウンドトラックのネタに使うからである。これはかなり恥ずかしい試みだが、やってみる価値はある。少なくとも誰もやってへんやろー、というみこみがあるだけでやってみる価値はある。(むろんこの動機づけだけではだめなんだけど)






■つかしんホールの映写室にはなぜかリブロボードとかから出している美術関係の本の在庫を保管する倉庫代わりにも使われていて、社員のおばちゃんが持って帰っていいよというので、美術雑誌の『アール・ヴィヴァン』のバックナンバーとか、荒川修作&マドリン・ギンズの『意味の構造』とか『クロソフスキー画集』とかいっぱいもらった記憶がある。要するに映写室の中でフィルムが廻っている間、本ばっかり読んでいたのだが、それもまたいい経験だった。柄谷行人の影響もあったけど、リールの回転とともに、みるみるうちに世界の見方が変わっていった時期だったのだろう。今日は突然の雨でえらい濡れた。今も風と雨がゴーゴーヒューヒューいってる。大量の葉っぱがこすれあっているのだろう波が打ち返す音のようでもある。